第二十七話
夏の折、リーベンフェルス男爵家は深い喪の色に包まれた。酷暑の陽光を遮るように引かれたカーテンの向こう側で、しめやかな葬儀が執り行われる。貴族の多くが避暑のために市街を離れていた時期であり、参列したのは身内とごく限られた者たちだけだった。
「……これでもう、君を縛るものは何もないよ。エルイーゼ」
棺が運び出されるのを、フェリックスは書斎の影から見送っていた。この死を司ったのは神の悪戯などではなく、フェリックスが描き、家族全員がその配役を全うした大博打である。
幕を上げたのは長女マリアだった。病に罹った妹を空気の澄んだ郊外の別荘で静養させると触れ回り、付き添いには侍女アンナ一人だけを指名した。閉ざされた寝室で、フェリックスが買収した医師が、一枚の死亡診断書を書き上げる。
最期を看取ったアンナは屋敷へ戻り「あまりに無惨な病状ゆえ、火葬を済ませました。最後のお顔をお見せすることさえ叶いません」と、喉を詰まらせて証言した。
フェリックスが計画の全貌を打ち明けた際、ヴィルフリートも両親もただ絶句する他なかった。死を偽装するなど神への冒涜にも等しい裏切りだ。何より最愛の娘を、妹を死んだものとして扱い、二度と会うことも、その名を呼ぶことも叶わなくなる。それでも、彼らはその欺瞞を受け入れた。それがエルイーゼに与えられる、唯一の救いだと信じたからだ。
「もしこの嘘が露呈したときは、すべて僕の独断だったと証言してほしい。兄さんは家を継ぐ人間だ。汚れ役は僕一人でいい」
ヴィルフリートは沈黙をもってそれを受け入れ、やがて両親の手によって葬儀が執り行われた。黒いベールで顔を隠した母は震え、父は深く頭を垂れる。
こうして、エルイーゼ・フォン・リーベンフェルスは死んだ。教会の名簿に刻まれた短い生涯の記録、豪華な装飾の施された空の棺。葬列が去った後の静寂の中で、リーベンフェルス家の末娘という肩書きは、永遠に土の下へと埋められたのである。
「ねえマグダ、やっぱりパパの隠し子だって。パパが若い頃にどっかの奥さんと火遊びでもして、今になって行き場に困ったのを引き取ったのよ、絶対!」
次女ヨゼフィーネがベッドの上で鼻息荒く主張すれば、長女のマグダレーナも腕を組んで唸る。
「でもフィーネ、ママはあのルートヴィヒが生活費を置いていったって言うのよ。あの自分でも何に使ったか覚えてないような顔して、いつも一文無しの男が!」
「……じゃあ何? まさかあいつの隠し子なわけ?」
「バカ言わないで。計算が合わないわよ」
二人は壁の向こうで「失礼いたします、おやすみなさいませ」なんて上品に挨拶して眠りについた謎の娘を思い出し、揃って溜息をついた。新しい姉妹のために急拵えで用意された狭い部屋からは、衣擦れの音ひとつ聞こえてこない。
すっかり死人になってしまったエルイーゼを受け入れてくれたのは、ルートヴィヒの画家仲間であるケルナーの家だった。彼には歳の近い娘が二人いる。下界の生活など何一つ知らないこのお嬢様を町の暮らしに馴染ませるには、小うるさい姉妹のいる家庭が一番だというルートヴィヒの算段だった。
最初は「どこの馬の骨とも知れない娘なんて!」と屋根裏まで怒声を響かせたケルナー夫人も、ルートヴィヒがまとまった額の生活費を届けると約束した途端、愛想よく客間を片付け始めた。夫人にとってルートヴィヒは、亭主を安酒場へ連れ回すろくでなしの友人の一人でしかない。そんな男に隠し子がいたのか、妹がいたのか、はたまたどこぞの愛人なのか。そんなことは家計を潤す現金の前ではどうでもいいことだった。
一方エルイーゼは、慣れない寝床で眠れずにいた。
ケルナー家の養女となった遠縁の娘という体裁。今日からはケルナー夫妻をパパとママと呼び、マグダレーナとヨゼフィーネを本物の姉妹だと思って過ごすようにと言い渡されたが、胸に広がるのは深い不安だった。
傍らの椅子には用意された簡素なリネンのワンピースが畳まれている。明日からはあれを着て、エプロンを締め、この家の一員として働かなければならない。新しい生活を覚えよう、ここでエルイーゼ・ケルナーとして生きていくために。彼女はそう固く決意し、短い眠りについた。
しかし。そんな彼女の意気込みは、翌朝には姉妹の訝しみを衝撃へと変えことになる。
「エルイーゼ。掃除をする時は袖をまくらなくちゃ」
「まくる……? こうかしら。でも、これでは腕が丸出しになってしまって、少しはしたなくないかしら、マグダレーナ」
「はしたないも何も汚れちゃうじゃない。ああもう、その手つき! あんた箒を持ったこともないの?」
まるで未知の魔法の杖を扱うように、恐る恐る箒を握り直すエルイーゼに、マグダレーナは天を仰いだ。
事態はそれだけでは終わらない。買い物に連れ立って市場へ出れば、商人の「今日は特別に色をつけてやったよ!」という威勢のいい冗談を、エルイーゼは目を丸くして聞き入っている。
「そうなのね……。市場では品物に色を塗って売ることもあるのね。とても勉強になるわ」
「ちょっとエルイーゼ。そんなわけないでしょ、ただの冗談よ!」
慌ててヨゼフィーネが彼女の腕を引っ張り戻すが、エルイーゼの瞳はどこまでも純粋だった。彼女にとっては目に映るすべての世俗が、これから身につけるべき絶対の常識なのだ。
そんな騒がしくも奇妙な日常の合間に、ルートヴィヒは頻繁に姿を見せた。もともとケルナーのアトリエには入り浸っていた彼だが、今やその足取りには隠しきれない目的があるのだ。
「ルートヴィヒ、来てくれたのね。いらっしゃい。……お客様なのだから、まずはお茶をお出しすべきね」
エルイーゼは甲斐甲斐しくエプロンの紐を整えながら、真剣な顔で言った。
「え、いいよ別に。この家でそんな丁寧な扱い受けたことないし。姉妹の顔見てよ、全然歓迎されてないから」
彼はそう言いつつも、内心では少しだけ期待していた。あの日、屋根裏部屋で泣きながら自分を選んでくれたお嬢様が、下町の暮らしでどれだけ逞しくなったのか。
「それで……お茶を淹れるには、まずお湯が必要よね。ルートヴィヒ、お湯はどうやって沸かすのかしら」
「本気で言ってる?」
背後でそのやり取りを聞いていたマグダレーナとヨゼフィーネは、呆れを通り越してもはやこの常識知らずを面白がり始めていた。
「ねえ、あんたって塔に閉じ込められたお姫様だったの?」
そんなからかい混じりの言葉も、ウィーンの街が黄金色に染まる秋の頃には親愛の証へと変わった。「姉妹は愛称で呼び合うものよ」というマグダレーナの教えとともに、彼女たちはエルイーゼを「エル」と呼んだ。
「へえ、エルね。可愛いじゃん。おれもそう呼ぼっかな」
ふらりと現れたルートヴィヒが気安く便乗すれば、すかさず姉妹から「あんたは姉妹じゃないでしょ」と鋭い声が飛ぶ。
名門貴族の家系図から消し去られた名前の代わりに、新しい家族がくれた、短くて温かい名前。リーベンフェルス家の末娘として死んだ彼女は、ケルナー家のエルとして、この騒がしい世界にたしかな自分の居場所を見つけたのだ。




