↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不遜な女神へのオマージュ  作者: 櫻まど花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/33

第二十六話

 心に灯った火があまりに眩しくて、思わず手を伸ばしたくなる。けれど、その熱が喉元までせり上がってきた瞬間、背筋を凍りつかせるような冷たい記憶が蘇った。

 あの一夜、たった一度の綻び。昨晩まで彼女を褒めそやし、甘い言葉をささやいていた社交界の貴族たちが、一斉に手のひらを返したあの瞬間。氷のような冷たい視線で、まるで悍ましいものを見るように彼女をのけ者にしたあの空気。愛する両親や未来のある兄にまで泥を塗ってしまったことへの後悔。

 二年の月日をかけてようやく静まった嵐を、また呼び戻せというの?


「……いいえ、だめよ。こんなこと、許されないわ」


 不意にエルイーゼの瞳から熱が引き、凍りつくような冷静さが戻ってきた。彼女は溢れた涙を乱暴に拭うと、隣で静観していたフェリックスを睨みつける。


「フェリックス、どうしてこんな真似をするの。……お姉様まで巻き込んで、一体何を考えているのよ」


 この二年間を無駄だったと突きつけられるのが怖かった。何より、ようやく保たれている家族の平穏を再びかき乱すことなど、とても耐えられないことだった。


「あなたがパトロンとして彼を支援したいというのなら、好きにすればいいわ。でも、どうしてわたしをここへ連れてきたの?」


 対してフェリックスは少しも怯むことなく、穏やかでありながら断固とした口調で告げた。


「そのことで話があるんだ。……ここでは少し、不都合な話がね」


 連れて行かれたのは、あの懐かしい屋根裏のアトリエだった。扉を開けた瞬間、二年前と何も変わらない、埃と光の混じり合う空間が彼女を包み込む。


「……まだここを借りていたの? ヴァイマールで賞を取ったなら、もっと立派な場所へ行けたでしょうに」


 時間が止まっていたようなその場所に、エルイーゼは呆然と立ち尽くした。今の彼なら、もっと陽の光が降り注ぐ、名声に相応しいアトリエなどいくらでも選べたはずなのに。


「行けたけどさあ。いつかエルイーゼがひょっこり来た時に、別の奴の物置になってたら悲しむと思って。絵が売れるたびにせっせと家賃払ってたんだよ、ずっと」


「……それだけのために?」


「それだけだよ。掃除しないと家が傷むとか大家がうるさいから、たっぷり色つけてさ。この部屋だけはそのままにしとけって言ったの」


 ルートヴィヒは使い古されたソファに身を投げ出し、窓際で埃を被るイーゼルを一瞥した。とはいえ、彼とて元に戻れると信じていたわけではない。それはただの馬鹿げた執着で、掃き溜めに金を捨てるようだと自嘲しながら、それでも手放すことができずにいただけだった。


「あなた、いつからそんなにお人好しになったのよ。馬鹿ね、ほんとうに……」


 懐かしさと申し訳なさと、そして押し殺してきた願いが、彼女の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。今にも泣き崩れそうなその細い背中を見つめていたフェリックスが、ついに妹の肩へ触れた。


「エルイーゼ、話の続きをしよう。……君はもう、十分すぎるほど家族のために尽くしてくれたよ」


 エルイーゼは弾かれたように振り返り、何を言い出すつもりかと兄を見つめる。すべてを台無しにしてしまうような嫌な予感と、心の底に押し込めていた何かが震え出すような一筋の希望が、彼女の心で揺れていた。


「この二年間で君は見違えるほど立派な、素晴らしい貴婦人になった。誰に後ろ指を指されることもない、僕たちの自慢の妹だ。……だから、もういいんだよ」


「フェリックス、やめて。あなた、いったい何を……」


「これが本当に最後だ。僕も姉さんも、もう二度と君の選ぶ道に口を挟んだりしない。だから、最後にもう一度だけ考えてみてほしい。もしそのドレスも名前も、全部脱ぎ捨てていいと言われたら、君はどんな道を選びたい?」


 窓から斜めに差し込む光が、宙を舞う埃を黄金の粒に変えていた。この屋根裏部屋だけは、あの日からずっと夜が明けないままだ。油彩の匂いも、三人で過ごした青い記憶も、何ひとつ色褪せることなく、ここに閉じ込められている。


「好きなように生きられるなら……エルイーゼ、君は誰の隣で笑っていたい?」


 その問いかけが、彼女の胸の底に沈んでいた記憶を、一気に呼び覚ました。

 まだルートヴィヒの絵にそれほど値がつかず、フェリックスが家の金を持ち出しては「これは未来への投資だ」と嘯いていた頃。床に散らばったデッサン、飲み残しのグラスが机に滲ませた染み、そして、ルートヴィヒの瞳に宿っていた、射抜くような情熱。


「……っ」


 耐えきれず、エルイーゼの瞳から大粒の涙が溢れ出した。

 そんな彼女の傍らへ、ルートヴィヒがソファから立ち上がって歩み寄る。彼は泣き崩れる彼女と視線を合わせるようにして、ゆっくりとその場に膝をつく。


「エルイーゼのことずっと忘れらんなかったし、諦めるとか器用なこともできなかった。……おれのミューズはエルイーゼだけだよ。他の誰でもない。あの日からずっと」


 覗き込むようなその瞳には、かつてのアトリエで彼女を見つめた、あの逸らせない熱が宿っている。彼は震える彼女の指先をそっと、包み込むように握った。


「もしエルイーゼも同じ気持ちならさ、今度こそおれを選んでよ。もうミューズのいないアトリエにせっせと貢ぐのもやだし。……おれのとこに帰ってきて、エルイーゼ」


 このアトリエで過ごした時間だけが、エルイーゼにとって本当に生きていたと言える人生だった。家名や身分という額縁を外した、瑞々しい素描の彼女がそこにはいたのだ。

 もしあの日々に戻れるのなら。彼が描き出す色彩の中で、もう一度息ができるのなら。


「……っ、ルートヴィヒ……!」


 エルイーゼはなりふり構わず、彼の首に腕を回し、その胸へと飛び込んだ。淑女の作法も、貴族の矜持も、すべてを投げ打って。シャツから漂う彼の匂い。その懐かしい温もりに顔を埋め、彼女は涙を流した。


「わたし、あなたのそばにいたい。どこへだって、あなたと一緒に行きたいわ。愛しているの。ずっと、ずっとあなただけを愛していたわ……!」


 抱きしめ返すルートヴィヒの腕の強さが、エルイーゼに新しい人生の鼓動を伝えていた。窓から差し込む斜光は、二人の姿を黄金色に染め上げる。それは悲劇の終わりではなく、名もなき二人の本当の物語の幕開けだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。