第二十五話
「あの教会の壁もようやく綺麗になるのね。お父様も、街の方々に愛されてきたあの場所がああも煤けているのを、ずっと心苦しく思っていらしたから。支援の申し出を受け入れていただけて本当に良かったわ」
「そうだね。あそこの壁画ももう誰が誰だか分からないくらい傷んでいたし。小さな教会だから、修復に回すお金が工面できなかったらしい。でももう心配はいらないよ。あとは依頼した相手が、まともな仕事をしてくれるよう祈るだけだ」
フェリックスは馬車の揺れに身を任せながら、のんびりとした口調で続けた。その言葉に、エルイーゼは怪訝な顔で寄付の記録から兄へと視線を移す。
「フェリックスが選んだ方でしょう? 自分で依頼しておいてなんて無責任な言いようかしら。確かな腕の持ち主でないと困るわ」
「ああ、腕だけは確かだよ。性格には少しばかり難があるかもしれないけどね」
フェリックスは楽しげに笑みをこぼし、窓の外へ視線を投げる。ウィーン大学を出たというのに、ふらふらと各地をほっつき歩いてばかりの彼は、気まぐれに気に入った芸術家のパトロンをしては母を呆れさせていた。今回も相変わらず、偏屈なフレスコ画家をどこからか見つけてきたのかもしれない。
やがて馬車は、初夏の瑞々しい緑に抱かれた古く静かな教会の前で止まった。司祭への挨拶を済ませ、二人は礼拝堂へと足を踏み入れる。ひんやりとした静謐な空気の中に、古い木材と新しく持ち込まれた漆喰と絵具の匂いが混ざり合っていた。
以前見た聖母子と天使たちの絵は、煤け、掠れて、その慈悲深い表情さえ判別できないほどだった。それがどう生まれ変わっているのだろう。
エルイーゼは期待に胸を弾ませ、祭壇の先を見上げる。すると隣に立つフェリックスが、わざとらしく口元に手を添えて大声で呼びかけた。
「進捗はどうだい、修復士殿!」
それに応える声が、高い足場から降ってくる。
「あー……まあぼちぼちかな。結構ボロボロでさ、これ全部描き直した方が早いんじゃない?」
それは聖なる場所には似つかわしくない、敬虔さのかけらもない声だった。宗教画に携わる者とは程遠い、それでいてエルイーゼの心の一番深い場所を掻き乱す、あまりにも懐かしい響きだ。
見上げた先の姿に、彼女の鼓動が一瞬で耳元まで跳ね上がる。
使い古されたシャツの背中。色彩豊かな顔料の瓶。そして、高い窓から差し込む陽光を透かして、柔らかな光を帯びる──見紛うはずのない、あの髪の癖。
会ってはいけない。会えるはずがない。恋を葬り、自分を殺して、思い出はすべて棺に収めて鍵をかけたはずだったのに。
筆を動かしていた男は、足場から片足を投げ出したまま、気怠げな様子で振り返った。
「でもさ、なんでフレスコ画? 別にできないことないけどおれじゃなくね?」
「そう言うなよ。君のあの光の描き方なら、この古びた礼拝堂に一番必要な奇跡を起こせると思ったんだ」
「光なら頑張ってやるけどさあ……表情削れすぎだろ。聖母の顔を想像で描くとか絶対向いてないわ。描いてるうちにめっちゃおれの好みの顔になっちゃったらごめんな」
相変わらずの不敬極まる軽口に、呆れるフェリックスを無視して投げられた男の視線が、立ち尽くすエルイーゼを真正面から捉えた。彼は筆を指の間に挟んだままの手を、ひらひらと軽快に振ってみせる。あの庭園で、彼女の魂をキャンバスに写し取った時と、何ひとつ変わらない仕草で。
「ほら、エルイーゼもそう思うでしょ」
二度と触れられないと思っていた、あの情熱の体温がそこにあった。諦めと献身の中に葬り去ったはずのエルイーゼの心は、彼の声ひとつで、痛いほど鮮烈に脈打ち始める。
「……そうね。あなたには、向いていないかもしれないわ」
こんなにもあっさりと彼の極彩色に塗り潰されてしまうなら、孤独の中で積み上げた二年間は、一体どこへ行き場を求めれば良いのだろう?
そう思うのに、瞳からは堪えようもなく熱い涙が溢れ出し、彼女は泣きながら笑って、唇は勝手に言葉を紡いでいた。
「だって、わたしのことをミューズと呼ぶんですもの。神様のほかに女神を持つなんて、とんだ不信心だわ……」
ルートヴィヒは可笑しそうに、けれど何よりも愛おしそうな眼差しで「ほんとそうだわ」と短く答える。
「マリア様の慈悲深いご尊顔を想像するより、エルイーゼがおれを睨んでくる時の唇を描く方がよっぽど得意なんだもんな。神様はおれを破門にするかもな」
やはりこの神聖な礼拝堂にあって、彼はどこまでも不遜で、軽薄で、そして残酷なほどに自由だ。
けれどルートヴィヒは、ドレスデンのエルベ川を描き、ヴァイマールでも賞を獲得したと聞いていた。画家としての階段を駆け上がり、もう二度とこのウィーンを振り返ることはないと思っていたのに。
「……どうして、ここへ? あなたは、ずっと遠い場所へ行ってしまったのだと思っていたわ」
「それがさあ、ミュンヘンでそれなりに楽しくやってたのにさ、急にフェリックスから手紙が来て。まあ普通に無視してたんだけど」
言いながらルートヴィヒは足場を伝って、身軽にエルイーゼの元へ降りてきた。ふわりと鼻先をかすめるのは、懐かしいあの絵具の香りだった。
「そしたら今度は伯爵家からも呼び出しが掛かったっていう……。そっちはさすがに断ったらイーザル川に沈められそうな勢いだったから、ハイハイってついてきたわけ。……てかあれ、なんで宛先わかったの?」
「言っただろう。うちの姉さんは、知りたいと思ったことはドナウの底に沈んだ石ころの数でも調べ上げる人だって」
「割とあちこち宿変えてたんだけど。やっぱお前の姉さん怖えよ」
フェリックスだけでなく、姉までもが陰で尽力し、この不信心な天才をミュンヘンから引きずり戻してくれたのだ。マリアの深い愛に抱かれ、ステンドグラスから差し込む七色の光の中。煤けた色彩は剥がれ落ち、エルイーゼの止まっていた時間は、今、かつてないほど鮮やかに動き始めた。




