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第二十四話

「……それにしても、エルイーゼ嬢のご献身ぶりには頭が下がりますわ。街の孤児院や救護院でお姿を見かけない日はないと聞き及んでおりますのよ」


 イレーネ嬢は心からの敬意を込めて、遠くない将来の義妹に語りかけた。今夜の主役の一人たる彼女の言葉に、晩餐の場を囲む両家の視線が自然とエルイーゼへと集まる。


「ええ、本当に。一時期、体調を崩して引きこもりがちだと伺ったときは心配いたしましたけれど……まさか、あんなに熱心に奉仕活動に没頭されるようになるとは。今や教会でも、エルイーゼ嬢を頼りにしている方が大勢いらっしゃるとか」


 イレーネの母親である男爵夫人が、穏やかに頷きながら言葉を添えた。かつて夜会の片隅で囁かれていた噂の棘は、二年間の沈黙と献身によってすっかり鳴りを潜めている。


「……もったいないお言葉ですわ、イレーネ様。わたしはただ、わたしにできる小さな務めを果たしているに過ぎません。お兄様の新しい門出を前に、我が家に少しでも良い報いがあればと願っているだけですの」


 二十の年を数え、周囲の紳士淑女に劣らず大人びたエルイーゼは、慣れた所作でグラスに指を添えた。かつての彼女を突き動かしていた危ういほどの情熱は、今や磨き上げられた大理石のような静寂に取って代わられている。

 あの別れの日から、彼女は自ら社交界を退いた。「もう縁談が舞い込むことはないから」と両親を説得し、花嫁支度や持参金になるはずだった莫大な資金を、すべて慈善活動へ投じたのだ。その献身によって家名の名誉は見事に回復し、この春にはヴィルフリートと名家の令嬢との良縁も滞りなくまとまった。


「あなたの仰る通りだ、イレーネ嬢。エルイーゼには、僕からも改めて感謝を伝えねばならない。……我が家の誇るべき未来と、自慢の妹に」


 ヴィルフリートがグラスを掲げ、乾杯の唱和が響く。クリスタルが澄んだ音を立て、そのさなかにエルイーゼはふと、隣に座るフェリックスと視線を交わした。


 何もかも、うまく行ったわ。フェリックス。


 リーベンフェルス家の末娘は、放蕩に身を崩しかけた少女ではなく、過ちに気づき信仰と慈愛に目覚めた才媛として、かつてより高い名声を得た。早朝の礼拝から始まり、泥にまみれた救護院での奉仕に身を捧げる毎日は、かつての焦がれるような感情を塗りつぶしていく。これが愛する家族のためにできる、唯一のこと。この平穏を守り抜くことだけが、あの日失ったものへの報いなのだと信じて、彼女は日々を積み重ねていた。



「君のところの次男坊と末娘は芸術に造詣が深いと聞いたからね。ぜひ自慢のギャラリーを見ていってほしい。君たちの肥えた目にはどう映るかな」


 その日は父の知人である伯爵の招待を受け、エルイーゼは父とフェリックスと共に広大な屋敷を訪れていた。恰幅のいい伯爵は機嫌よく笑い、二人を奥へと促す。

 しかし、豪華な装飾が施されたギャラリーの扉に辿り着く直前、エルイーゼの足がぴたりと止まった。廊下の、窓からの光が斜めに差し込む一角。そこに飾られた一枚の風景画が、彼女の視線を釘付けにしたのだ。


「……おや、エルイーゼ嬢。そちらに目が留まったかな」


 足を止めた彼女に気づき、伯爵が苦笑混じりに振り返る。描かれていたのは、エルベ川のフィレンツェと称えられる古都の情景だった。水面に溶け出すような陽の光、歴史ある尖塔の影、そして空を流れる雲の描き方。


「妻がひどく気に入って買い入れたものでね。私個人としては、少々色彩が奔放すぎるとも思うのだが……伝統的な美しさというよりは、目に焼き付くような。美しいのは認めるが、格式あるギャラリーに飾るには少々騒がしい。それで、こうして廊下に出しているのだよ」


 伯爵の言葉は、もはやエルイーゼの耳には届いていなかった。キャンバスを埋め尽くす、黄金色に燃える川面の光。それはあの日彼女が突き放した彼の、剥き出しの情熱そのものだ。

 隣に立つフェリックスは、妹の動揺にすぐさまその理由を悟った。彼もまた、その奔放すぎると称された筆致に、見間違えるはずのない一人の男の面影を認めていたから。


「だが、驚いたよ。これを手に入れた後、この画家はヴァイマールで賞を取ったそうだ。どこの誰とも知れぬ若手の作だったが、どうやら家内には先見の明があったらしい」


「……っ」


 エルイーゼの指先が、レティキュールの持ち手を握りしめたまま白く震える。呼吸の仕方を忘れたかのように、喉の奥が熱く、せり上がってくる感情を抑え込むことができない。


「……確かに、額縁に収まりきらないほどの光を感じますわ。一生消えない夜明けを連れてきてくれたような……」


 途切れそうになる声を、エルイーゼは矜持だけで繋ぎ止めた。逃げ出したいような、あるいは彼の名を呼んで泣き叫びたいような思いを堪えて。

 もう二度と交わることなどない。あの日、二人の道は永遠に分かたれたのだと、自分に言い聞かせて生きてきた。だというのに、こんなふうに再会してしまうなんて。


「……なんて鮮やかな色彩かしら。まるで魔法にかけられたような、ドレスデンの姿だわ」



 それから屋敷に戻るなり、エルイーゼは誰の手も借りず自室へ閉じこもってしまった。着替えを手伝おうとした侍女のアンナにさえ、固く閉ざされた扉越しに「一人にして」と拒絶を告げて。

 やがて日は落ち、夕食の準備が整っても彼女が現れる気配はない。困り果てた両親から背中を押される形で、フェリックスは妹の部屋の前に立った。

 本当はこのまま放っておいてやるべきだと分かっていた。だがあの廊下で妹が見せた、今にも砕け散りそうな横顔を思い出すと、そのまま立ち去ることもできない。


「……エルイーゼ、入るよ」


 扉を押し開ければ、カーテンも引かぬまま月明かりに照らされたベッドの上に、彼女はいた。着替えもせずに身を投げ出したその姿は、まるで嵐のあとの折れた百合のようだった。結われていた髪は乱れて枕に散り、青白い頬には幾筋もの涙の跡が浮き出ている。


「……フェリックス。食事はいらないと、厨房に伝えて」


 掠れた声には感情の昂りさえ残っていなかった。涙の泉はもはや枯れ果ててしまったのだ。フェリックスは椅子を引き、彼女の枕元に腰を下ろす。エルイーゼは一枚の紙を両手で握りしめ、食い入るように見つめていた。

 そこに描かれていたのは、かつて彼女が「宝物なのよ。羨ましいでしょう?」と、この上なく誇らしげに見せびらかしてきたあの似顔絵だった。

 橋の上で、たった二十クロイツァーで描かせた安っぽい紙。出会ったあの日から三年の月日が、粗末な紙の端を無残に擦り切れさせ、折り目は何度もなぞられたせいで白く剥げかかっている。


「……今もまだ、あいつに心があるんだな」


 フェリックスの声はやりきれなさに沈んでいた。いっそ忘れられたならどんなに楽だっただろうか。この二年をそのまま彼女の新しい人生として受け入れてしまえば、どれほど穏やかに笑えただろう。


「……そうよ!」


 だが、エルイーゼは当然だと言わんばかりの顔をした。それはほとんど苛立ちに近い、剥き出しの感情だった。赤くなった瞳が、初めて兄を強く射抜く。


「これからもずっと、一生そうよ。あの人を想い続けることが、わたしの自由なの。二度と会えなくても、それでもいいの。あのアトリエで過ごした時間だけが、わたしにとって本物の人生だったから。この似顔絵が、わたしがあの日、本気で生きていた証なんだもの」


 堰を切ったように溢れ出した言葉は、彼女が心の最も深い場所に隠し、蓋をしてきた傷そのものだった。誤魔化したって、傷口は開いたまま、血を流し続けている。家族のためにと捧げてきた献身という名の麻酔で、痛みを感じないように麻痺させてきただけだ。


「手放してしまったら、もう、わたしじゃなくなってしまうわ。あんなに美しい水面を描き出す指が、わたしの頬に触れて、誰にも見えなかった本当のわたしを、彼だけが描き出してくれたの。……ねえ、こんなにも心を占める誰かがいることを、憐れだなんて言わないでよ」


 この傷はきっと一生、癒えることなどありはしない。二度と触れられない人だからこそ、刻まれた記憶は消すことができない。人々に賞賛され、穏やかな日々を過ごしていても。不意にあの色彩を思い出すたび、彼女の心からは鮮血が滴るのだ。

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