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不遜な女神へのオマージュ  作者: 櫻まど花


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第三十話

 六月の花嫁は、生涯幸せな結婚生活を送ることができる。

 幼い頃に母から聞かされたその言い伝えを、エルイーゼはずっと信じていた。いつか白馬に乗った王子様が迎えに来て、溢れんばかりの薔薇の花に囲まれた大聖堂で、世界中の誰よりも祝福される。そんな夢のような一日を、彼女は少女らしい無邪気さで何度も思い描いてきた。


 そんなおとぎ話の華やかな大聖堂とは無縁の、ウィーンの外れにひっそりと佇む祈りの場。差し込む光には埃が舞い、空気はひんやりと澄んでいる。祭壇の前に立ったエルイーゼは、隣で居心地が悪そうに、それでいて神妙な顔をして立っている男の横顔を盗み見た。


「ねえ、不信心なルートヴィヒ。神様も見ていらっしゃるんだから、今日くらいはちゃんと誓ってね」


 囁かれたルートヴィヒは、眉間に皺を寄せて困ったように顔を歪めた。かつてはフェリックスに最高級の燕尾服を無理やり着せられ、毎晩夜会へ放り込まれたこともあったが、結局その贅沢な生地に馴染むことは一度もなかった。

 ましてや今日彼が纏っているのは、ケルナーに借りた一昔前の堅苦しい礼服だ。肩の線も袖丈もどこかぎこちなく、彼は首筋を気にするように何度も頭を動かしている。


「分かってるって。これでもかなり真面目な顔してるつもりなんだけど」


 ルートヴィヒは不器用な手つきでタイの結び目をいじり、小声で言葉を継いだ。


「ここで信心が足りないなんてバレてさ、神様に『お前にエルはもったいない』なんて言われたら、それこそ目も当てられないじゃんね」


 その肩の力の抜けた言葉に、エルイーゼはふふっと小さく笑みをこぼした。彼らしい、不躾なようでいてひたむきな誠実さが愛おしい。


「そうね。これは一生に一度きりの、神様とあなたの約束よ。……でも、もしあなたが不合格だと言われてしまったら、その時はわたしが神様を説得してあげるわ」


 夢見るような心地で語る彼女が纏っているのは、ケルナー夫人と姉妹たちが一針ずつ真心を込めて編んだレースで飾られたウェディングドレスだった。「エルイーゼに一番似合うのはこの色よ」と姉妹たちが瞳を輝かせて選んでくれた澄み渡る空色のドレス。その裾や袖口に、繊細なクロシェレースがふんだんに縫い付けられている。


「そりゃ心強いね。エルに詰め寄られたら、神様も根負けして合格点を出すしかないだろうし」


 神父の穏やかな声が、古い石壁に反響しながら二人の誓いを促す。

 参列したのは、涙を浮かべて見守るケルナー一家だけ。それでもエルイーゼには分かっている。かつて煌びやかな舞踏会で、名だたる紳士たちと幾度ステップを交わしても、その誰の手の中にも見つけることのできなかった温もりが今、ここにある。

 この小さな聖堂に満ちている温度こそが、彼女がずっと探し求めていた、たった一人の運命の人が教えてくれた真実の色彩なのだ。


 やがて、ルートヴィヒの節くれだった指先が、エルイーゼの顔を覆う繊細なベールをそっと持ち上げた。唇が重なった瞬間に、その温もりから愛おしい思い出が鮮やかな情景となって胸を満たしていく。

 ルートヴィヒはいつも、出会ったあの日からずっと、彼女に新しい名前をくれた。

 あるときは、鳥籠の鍵を壊して飛び出した、世界で一番自由な女の子として。

 あるときは、彼のキャンバスを彩り命を吹き込む、ただ一人のミューズとして。

 そして、自由に満ちた日々を共に過ごしたケルナー家のエルとして。

 そして今、彼は自分自身の名前を、分かち合うべき一生の名前を彼女に授けてくれた。

 家門も名誉も、かつての輝かしい未来もすべて手放した。二人の前にはもう、豪華な額縁も約束された富もない。けれど、ルートヴィヒが描いてくれるこれからの景色には、きっと世界で一番美しい色彩が溢れている。エルイーゼは彼の腕の中で、新しく始まった物語のまばゆい光を、その大きな瞳いっぱいに映していた。



 長い日々を過ごした屋根裏のアトリエを、今日、二人は引き払うことになっていた。

 そこは夏には焼け付くような熱気が籠もり、冬には隙間風が絵具を凍らせるほど冷え込む、お世辞にも快適とは言えない場所だ。けれど高い位置にある大きな窓からは、純粋な光が常に降り注いでいた。ルートヴィヒにとっては、ウィーンに出てきてからの十年間、泥を啜るような日々も筆を折らんとした夜も、すべてを共にしてきた城だった。


「ミューズが二十四時間隣にいてくれるわけだし。もうこんな狭い穴ぐらに立てこもる必要もないもんな」


 二人の新しい家では、エルイーゼが「あなたが一番いい絵を描けるように」と、家の中で最も光の溢れる特等席をアトリエとして譲ってくれた。そんな約束された未来が待っているというのに、この男の荷造りは一向に進まない。そもそも彼は、片付けという概念からこの世で最も遠い場所に生息する生き物なのだ。


「あ、これ懐かし……。今見るとちょっと下手だけど」


「ちょっと、さっきから一つも荷物が減っていないじゃない。荷造り中によそ見をしないって約束したでしょう?」


 ルートヴィヒがどっかりと床に座り込み、隅に積まれたスケッチブックの一冊をめくり始めると、すかさずエルイーゼがそれを奪い取る。しかしパラパラと捲れたページに目を止めた瞬間、彼女は「きゃあ!」と鋭い悲鳴を上げた。


「待って、これは何⁉︎ 信じられない、なんて破廉恥なの!」


 ページに躍っていたのは、なまめかしい体つきを克明に追った裸婦のデッサンだった。エルイーゼは顔を真っ赤に染め、悲鳴をあげながら「没収よ!」と叫ぶ。彼女はルートヴィヒに返さないよう、精一杯腕を伸ばしてスケッチブックを高く掲げた。


「あ、返してよ。練習だよ、練習。絵描きなら誰だって通る道なの。そんなに騒ぐことじゃないって」


「練習だろうと何だろうとダメよ。こんなもの、新しいお家に持って行くなんて絶対に許さないわ!」


 爪先立ちになり、必死に没収を決め込もうとするエルイーゼだったが、ルートヴィヒが「よいしょっと」と気の抜けた声を出しながら立ち上がると、その抵抗は一瞬で無意味なものになった。彼は軽々と腕を伸ばすと、彼女が必死に守っていたスケッチブックを、まるで棚の上の荷物でも取るような手軽さで奪い返した。


「はい、没収失敗」


「なっ……、卑怯だわ! とにかく、そういう練習は、新しい家のアトリエでは厳禁だからね!」


「はいはい、善処しまーす」


 空返事をしながらルートヴィヒはふと、五年前のあの日、彼女が初めてこのアトリエの扉を叩いた時のことを思い出した。エルイーゼが十七歳の時にこれを見られなくて本当に良かった。あの頃の彼女ならきっと悲鳴を上げて階段を駆け下り、二度とこの場所へは戻ってこなかっただろう。


 エルイーゼはなおも怒りながら、窓際に立てかけられたイーゼルの前へと歩み寄った。そこには真っ白な一枚のキャンバスがある。それを見つめる彼女の後ろ姿に、窓からの強い陽光が降り注ぐ。埃が金色の粉のように舞い、彼女の輪郭をまばゆく縁取った。


「……あ、いいじゃん、それ」


「え?」


「ちょっとそのまま。じっとしててよ」


 驚いて振り向こうとするエルイーゼを制し、彼はそこらへんに転がっていたコンテをひっ掴んだ。荷造りのことなど、もう脳内からは完全に消え去っている。スケッチブックの白紙のページを開くと、彼女の背後に歩み寄り、パレットと筆を手に取らせた。


「ほらこれ持って。キャンバスに筆向けてさ、こうやってちょっと腕上げてて」


 ルートヴィヒは彼女の背中から包み込むように腕を回し、彼女の手首を優しく支える。それはまるで、彼女自身がその空白に何かを描き込もうとしているかのようなポーズだった。

 エルイーゼはその不自由な姿勢を大人しく受け入れることにした。これがミューズの宿命というものね──そう自分に言い聞かせながら。


 先ほどまでのふざけ合った空気はどこへやら、彼は完全に画家の顔に戻っていた。コンテが紙を削る小気味よい音が、静まり返った屋根裏に響き渡る。エルイーゼはモデルとしてじっと前を見据えながらも、内心では落ち着かなさを感じていた。

 そばには迷いなく手を動かすルートヴィヒがいる。その瞳は先ほどまで軽口を叩き合っていた男のものとは思えないほど鋭く、エルイーゼの輪郭を、その奥にある魂までを射抜こうとしているかのようだった。

 やがて、彼が短くなったコンテを無造作に床へ放り出した。乾いた音がして使い古された黒い塊が埃の中に転がる。相変わらず、使ったものを片付けるという意識は欠片もない。


「よし、終わり。……いいよ、動いて」


 その声に解き放たれ、エルイーゼは固まっていた体をほぐした。期待と高揚感に胸を膨らませながら、彼女は彼が今しがた魔法をかけたはずのスケッチブックを覗き込む。そして、そこに描かれたものを見た彼女は怪訝そうに首を傾げた。


「ねえ、なんで顔を描いていないの? せっかくじっとしていたのに、これじゃ未完成じゃない」


 スケッチの中で彼女は、今にも光の中へ溶け出しそうなほど鮮やかに息づいていた。翻るレースの裾や、筆を執る指先の緊張感までが鮮明に写し取られている。それなのに肝心の顔の部分だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、紙の白さを残したままぽっかりと空白になっていた。


「ルートヴィヒ、ひどいわ。わたしの顔、そんなに描きにくかったかしら」


 エルイーゼは少しだけ唇を尖らせて彼を振り返る。せっかく二人の門出を祝う一枚だと思っていたのに、顔がないのでは誰のスケッチかも分からない。ルートヴィヒはそんな彼女の様子がおかしいのか、声を立てて笑うと、その不満げな肩をぐっと抱き寄せた。


「いや、なんかさあ。さっき教会でベール被ってるエルを見てて思ったんだよ。顔が見えなくたってエルが笑ってる声は聞こえるし、怒ってる時のムッとした唇の形だって分かるなって。だったら外側なんか別にいらないじゃん」


 特別な気負いも、飾り立てたロマンチックさもない。ただ思ったことを口にする、いつもの彼らしい気安さだった。


「どこどこの誰だとか、そういう肩書きももう必要ないんだよ。エルが誰でもおれは好きだから。それにさ、おれの奥さんの正体は一生おれだけが知ってりゃいいし」


 花嫁の貌を隠し、ただの光としてスケッチブックに留める。それは独占欲というよりは、彼女という存在を定義しようとする世俗の目から、彼女を一生隠し抜くという彼なりの決意だった。


「この真っ白なとこにはさ、これからエルが好きなものを描けばいいよ。あの下手くそな絵でも何でも。エルイーゼはもう、決められた枠の中に収まってなきゃいけないお嬢様じゃないんだからさ」


 芸術家の哲学か、あるいはただの独り言か。けれど、その白には、彼が彼女に与えたかった無限の自由が込められていた。何も描かれていないからこそ、そこには限りない自由が広がっているのだ。


「……ルートヴィヒ」


 エルイーゼの胸に、言葉にならない感動が込み上げる。自分を縛っていたすべての役割から解き放ってくれるのは、いつだってこの不躾で真っ直ぐな男だった。


「……そうね。あなたの目はいつも、本当のわたしを見つけてくれるもの。わたしの魂の色を見てくれるあなたがいるから、わたしはどこにいたって、わたしらしく自由でいられるのね」


 エルイーゼが愛おしそうにスケッチをなぞると、ルートヴィヒはふと思い立ったように、散乱した荷物の中からパレットと筆、そしていくつかのチューブを拾い集めた。手際よく色を混ぜ合わせ、彼が作り出したのは、かつてエルイーゼが心から愛した、あのどこまでも澄み渡った空の色だった。

 彼はその筆を、迷いなく真っ白なキャンバスの隅へと走らせる。


 ──おれの最愛の妻、そして一生唯一のミューズへ。


「向こうに着いたらさ、このスケッチ使ってこの上に本格的に描き始めようかな。新しいアトリエでの最初の仕事はこれにするわ」


「本当? 素敵な思いつきね! わたしたちの家で初めて描かれる作品が、わたしの絵だなんて……」


「できあがったらフェリックスにでも送ってやろうかな。嫌味の一つでも添えてさ」


 ルートヴィヒは満足げに、まだ絵具の乾かないキャンバスを眺めた。夏は暑く冬は寒い、けれど二人で過ごした日々の色彩が詰まったこの屋根裏部屋。別れを告げて扉を閉じる時、二人の視線の先には、真っ白な余白から始まる物語が、あの空色の絵具と同じ輝きを放って広がっていた。



 ウィーンの中心部、インネレ・シュタットに居を構えるリーベンフェルス邸には、春の陽光とともに喧騒が満ちていた。

 ヴィルフリートとイレーネの間に産まれた幼き兄弟。彼らの無邪気な産声や廊下を駆ける足音は、屋敷に新たな時代の息吹をもたらしている。そんな幸福な家族の図を横目に、いまだ独り身のまま実家を我が物顔で闊歩しているフェリックスは、両親や親族からの「そろそろ身を固めてはどうか」という痛い視線に晒される日々を過ごしていた。


 窓の外で揺れる光を背に、フェリックスは机に広げた芸術誌の最新号や、パトロンとして支援している若手たちの近況報告書に目を通していた。

 有望な才能を見出し、世に送り出す。それは彼にとって重要な仕事であり、かつて妹と共に芸術を語り合った幸福な時間の続きにある、心の拠り所でもあった。熱意に溢れる推薦状や展覧会の目録をめくりながら、ふと、記事の隅に躍る「光の魔術師」という美辞麗句に、かつての屋根裏部屋の住人を重ねて苦笑を漏らす。


 そんな静寂を破ったのは、老執事が奏でる困惑した足音だった。


「フェリックス様。お手隙でしょうか」


 顔を上げると、執事はいつもの銀のトレイではなく、両腕を回してようやく抱えられるほどの大きすぎる荷物を抱えていた。粗末な麻布で幾重にも包まれたその物体は、静謐な空気の中にあって明らかに不審だった。


「差出人の記載がないのですが、どうしてもあなたに直接お渡しするようにと。非常に執拗な配達人でして……」


「不気味だな。……下がっていてくれ、自分で開ける」


 執事を下がらせ、扉に鍵をかける。フェリックスは机の上のペーパーナイフを手に取ると、躊躇うことなく麻紐を断ち切った。乾いた音を立てて麻布が床に落ちる。現れた中身を露わにした瞬間、フェリックスは息を呑み、ナイフを握る手に思わず力がこもった。


 額装もされていない、描きかけのような剥き出しのキャンバス。翻るレースの繊細な影、そして癖のある金褐色の髪──。それらは息を呑むほど克明に、まるで命を宿しているかのように美しく写し取られている。執拗なまでに描き込まれた光彩のなかで、しかし、肝心のモデルの顔だけは、霧に包まれたかのように曖昧にぼかされ、真っ白な空白として残されていた。


 そのキャンバスの端に、小さな紙片がひらりと挟まっている。それは、端が少し折れ曲がった安価なスケッチ用紙だった。そこに描かれている姿は、何年経とうと、たとえこの世のすべての記憶が薄れようとも見間違えるはずがない。自分とよく似た顔立ちの、愛おしい、たった一人の妹の姿。

 簡素なブラウスの袖を捲り上げ、好物のクラプフェンを手に笑うその表情は、瑞々しい幸福と自由に満ちあふれていた。さらにその傍らには、彼女自身が描いたのであろう、恐ろしく下手くそな──けれど、モデルへの愛情がこれでもかと滲み出た──ルートヴィヒの似顔絵が添えられている。


「……ふっ、あははは!」


 フェリックスは弾かれたように声を上げて笑った。それは、パトロンとして接する洗練された芸術家たちの前では決して見せない、腹の底からの笑いだった。スケッチを裏返すと、そこには殴り書きのような、乱暴な筆致が躍っていた。


 ──不遜な女神様はこっちで元気にやってるよ。


 この前もさ、水溜りを飛び越えようとしてお気に入りのスカート泥だらけにして。結局おれが夜通し洗ってやったんだけど、まあ相変わらず手に負えない。


 そういや今度生まれる子の名前、フェリックスって候補挙げられたけど、お前みたいに性格悪くなりそうだから速攻で却下しといた。


 もうお前がこいつの顔を見ることはないだろうけど、この絵だけはやるよ。ま、これ見てせいぜい一生おれに感謝してくれ。


 心配するな、兄貴。こっちは順調だ。──ルートヴィヒ


「……相変わらず一言多い男だな」


 フェリックスは吐き捨てるように文句を零したが、その目元は隠しようもないほど満足げに緩んでいた。妹を奪った男からの、傲慢で、それでいてあまりに潔い回答。フェリックスはそのスケッチと顔のない肖像画を、宝物のように大切に抱えた。そして今もなお遠い空の下へ消えた愛娘を想い、溜息をついているであろう両親と、同じように彼女の行く末を案じ続けている兄のもとへ、誰よりも軽やかな足取りで駆け出した。


「父さん、母さん、兄さん。良い知らせだよ!」


 彼の叫び声は廊下を突き抜け、窓の外に広がる春の庭園へと明るく響き渡った。そこはかつて、あの無名の画家が彼女の中に眠る女神を初めて見出し、キャンバスへと描き出した場所だ。もう何も案じることはない。妹は今、どんな名画よりも鮮やかな自由の中で、その魂を輝かせているのだから。

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