第二十三話
「自分に嘘をつくな、エルイーゼ。君の人生だ。君の好きなように描き直せばいい」
そう言い残して部屋を去った兄の言葉を、エルイーゼは一晩中、胸の中で反芻し続けた。「君の人生だ」と言われても、今この瞬間でさえ、隣の寝室では母が涙を拭い、父は書斎で家の存続のために頭を抱えているのだ。この期に及んで彼に会うことは、家族への裏切りに他ならない。
それでも、これはすべてを台無しにした妹への、フェリックスのせめてもの優しさなのだと彼女は自分に言い聞かせた。きちんと、さよならを言わなければならない。あの路地裏に置いてきてしまった夢を、今度こそこの手で埋葬するために。
翌夜、重い雲に覆われた月明かりの下。約束の刻限を告げるように、遠くで犬が吠える声がした。忍び寄るような重い足音に、弾かれたように振り返ったエルイーゼの瞳に、待ち焦がれた影が映る。けれど、月明かりが照らし出したルートヴィヒの顔を見て彼女は息を呑んだ。その頬には、隠しようもないほど痛々しい痣が居座っていたから。
「……ルートヴィヒ。その怪我……フェリックスがやったのね?」
「あー……これね。いいよ、あんま気にしないで。ちょっとした話し合いの結果っていうか。一種の対話? ってやつじゃん」
彼はいつも通りへらりと笑い、腫れた頬を無造作にさする。その軽薄な態度が、今はかえってエルイーゼを後悔に痛ませた。あんなに信頼し合っていた二人なのに、自分のわがままが、彼らの友情さえも壊してしまった。
「わたしのせいよ。わたしがあんな真似をしたから、あなたがこんなに痛い思いをするのね。ねえ、すごく痛むでしょう? 氷をもらってくる? それとも薬を……」
「いいって。あいつ、口より手の方が早いたちだったんだな。上品な嫌味の手持ちが尽きただけかもしんないけど」
「……そんなの、ぜんぜん笑えないわ。どうしましょう、わたし、怪我の手当てなんて一度もしたことがないのよ」
誰かに声を荒らげられることすらなく生きてきた彼女にとって、暴力とは未知の恐怖であり、ルートヴィヒの顔の痣は彼女自身の罪悪感そのものだった。ルートヴィヒは強引に話題を逸らすように、彼女の華奢な肩をぐいと引き寄せた。自分の体温を伝えるように距離を詰め、視線を合わせて顔を寄せる。
「それよりさ、見てよ。あっちの通りのパン屋、もう明かりついてる。こんな早くから仕込みしてんだね。あそこのキプフェル知ってる? すっげえバター入っててさ、通り過ぎるだけで腹減ってしょうがねえの。次はエルイーゼ連れてこうと思ってたんだけど」
そして自由な方の手で、闇の向こうを指差す。エルイーゼは必死に爪先立ち、彼の指の先を見つめたが、目の前にあるのは高い石造りの壁と、暗い庭木の影だけだった。
「……どこ? 何も見えないわ。木や塀に遮られてしまって」
「え、ほんとに? ほら、あそこの看板ならちょっとくらい……」
「見えないわ。……ルートヴィヒ、わたしとあなたじゃ、見えている世界が違うのね。背丈も、歩いてきた道も、全部。……あなたはわたしには見えない景色を、ずっと一人で見てきたのね」
エルイーゼはもう一度背伸びをしてみたが、やはり夜空の向こうにあるはずの明かりにはどうしても届かなかった。ルートヴィヒの視線の高さにある広い世界はあまりにも遠くて、彼女はますます悲しくなる。
「そんな顔しないでよ、見えないなら肩車でもして見せてあげるって。あとはね、ほら。あそこの屋根の上の風見鶏。さっきからずっと南向いたまんまじゃん。明日は雪じゃなくて晴れるよ。……晴れたら、またエルイーゼをモデルにして描きたいと思ってた。次はもっと明るい、春って感じの色たくさん使ってさ」
「……ルートヴィヒ、お願い。そんな話、もうしないで」
「……そうだよな、ごめん。でもさ、エルイーゼとこうやってどうでもいい話してる時間が、おれは一番好きだったんだ。ほんとだよ」
これが最後だとわかっていて、何を話せばいいのか、何を聞けばいいのかエルイーゼにはわからなかった。彼もきっと同じなのだ。だからこそ、彼はあえていつも通りのふりをして、二人だけの時間を繋ぎ止めてくれている。
「ごめんな、エルイーゼ。おれは自分のことばっかで、エルイーゼのことちゃんと考えられてなかった。フェリックスにもめちゃくちゃ怒られて。……まあこの顔見りゃ分かると思うけど。責任取れって、本気で締め上げられた」
いつの間にか彼女の頬を一筋の涙が伝って、それに気づいたルートヴィヒが大きな手を頬に添えた。親指で涙を拭われたとき、少しだけ力が強くて、肌にわずかな痛みを感じる。それでもその痛みこそが、彼がここにいるという唯一の確かな感触に思えた。
「でもさ、あいつに脅されたから言うわけじゃないよ。……エルイーゼ。ウィーンじゃなくて、どっか遠くに行かない?」
「え……?」
「二人で暮らそう。おれは絵だけ描いて生きてきたみたいに見えるだろうけどさ、食い扶持稼ぐ手段なんかいくらでも知ってるから」
ルートヴィヒはまるで散歩に誘うような調子で、とんでもないことを言ってのけた。一瞬、呼吸を忘れるほどの高揚がエルイーゼの胸を掠める。けれど、盲目的に美しい夢を見るにはもはや現実を知りすぎていた。だって彼女はもう、お伽話の終わりを信じていられるような子どもではないのだ。
「……っ、何を言っているの? そんなの、無理よ。もう二度と、あの日々には戻れないの。お願い、会えるのは今夜が最後だと思って」
「戻んなくていいよ。リンツでもザルツブルクでも、エルイーゼの好きなとこ行こ。贅沢な暮らしは約束できないけど、エルイーゼを食わせてくくらいは任せてよ」
重ねられた彼の手が、ぎゅっと力を込めて彼女の指を絡めとった。その掌は驚くほど熱い。そのまま、繊細な一筆を描くような手つきで、けれど逃がさないという意志を込めて抱き寄せられた。
「なあ、好きだよ、エルイーゼ。……好きだ。お願いだから、二人で暮らそう」
耳元で囁かれる懇願するような低い声の、その切実な熱に当てられて、すべてを投げ出してしまいたくなる。けれど、今選ぼうとしているのは挿絵のような輝かしい逃避行ではない。汚名と貧困と、そして残された家族の絶望の上に成り立つ、あまりに脆い砂の城だと、冷めた心が囁いている。
「……できないわ! ここでわたしがいなくなったら、両親やお兄様たちはどうなるの? ふしだらな娘が家を捨てて逃げたと、社交界でこの先ずっと後ろ指を指され続けるのよ!」
「残ったって同じだろ!」
叫ぶようなエルイーゼの声に当てられたように、ルートヴィヒは苦しげに声を荒らげた。彼はもどかしそうに、エルイーゼの肩を指が食い込むほどの強さで掴む。
「結局ふしだらな娘って陰で笑われんのはエルイーゼの方じゃん。そんな場所ですり減ってくつもりかよ。……耐えられるわけない。そんな思いさせたくないんだって。分かってよ」
折れそうなほど、苦しいくらいに抱きしめられる。その胸の鼓動が、早鐘を打つ自分の鼓動と重なって、エルイーゼは息が止まりそうになった。抱きしめ返したい。その背中に手を回して、すべてを捨ててしまいたい。けれど、動けない。代わりに涙が、堰を切ったようにとめどなく溢れ出した。
「なあ、一緒に来て。おれだけじゃない。フェリックスだって分かってんだよ。だからおれを呼んだんだ」
「……フェリックス?」
その名を呼ばれた途端、エルイーゼは涙の中で、きっと何もかもを悟ってしまった。兄が今夜、誰にも見つからないようにこの場所へルートヴィヒを招き入れた意味。
そうだったのね、とおののくような震えが彼女を襲う。兄は彼女の不実も、家門に泥を塗ったことも、そのすべてを飲み込んだ上で、愛する人の手を取って逃げるための道を用意してくれたのだ。自分自身がどんな苦境に立たされようとも、妹の幸せだけを願って。
「……ルートヴィヒ、ごめんなさい」
その愛を知ってしまったからこそ、エルイーゼの心は皮肉にも固まった。
「……行けないわ。フェリックスの想いを知って、どうしてわたしだけが幸せになれるというの?」
彼女は溢れ出す涙をそのままに、愛おしそうに彼の頬に触れる。つい指先に力がこもってしまうのは、そこに愛する人がいてくれることを、その熱を、今この瞬間の実感を確かめたいからだと知った。
「……昔から喧嘩ばかりだった。あなたの前でも、何度も恥ずかしい言い合いをしたでしょう。でも、それでもあの人は、わたしの大切なお兄様なの。今だって、わたしが逃げたら家族がどんな立場に置かれるか、全部わかっていて……それでも背中を押そうとしてくれた」
彼女は、自分を抱き寄せている熱い腕を押し返した。ゆっくりと、けれど確かな拒絶を持って。
「わたしはお兄様を守りたい。お兄様がわたしを守ろうとしてくれたのと同じに。家族より大切なものなんて、他には何もないから。家名や世間体のためじゃない。わたしを愛してくれた家族のために、わたしができることをするのよ」
「エルイーゼ、なあ、おれには無理だよ。お願いだからさ……」
「あの日のこと、何があっても後悔しないわ。あなたと心が通じ合えたこと、本当に夢みたいだった。ずっと夢だったの。いつかね、わたしだけの王子様とキスをするのが」
泣きながら微笑む彼女の姿は、月明かりの下で、誰にも汚すことのできない女神のように美しかった。それは、ルートヴィヒがどれほど筆を尽くしても、決してキャンバスに閉じ込めることのできない、気高く残酷な愛の光だった。
「あなたの才能は本物だもの。いつか必ず、どんな人にも認められる偉大な画家になる。きっとなれるわ。……わたしたちの夢を、あなたが叶えて」
ルートヴィヒが震える声で名を呼ぶ。その言葉を封じるように、エルイーゼは彼の首に腕を回し、別れを惜しむように唇を重ねた。それはずっと夢に見ていた王子様とのキスであって、二度と戻れない居場所への未練を断ち切るための儀式のようでもあった。
「……ほんと、頑固。あの日橋の上で会った時から、エルイーゼは一回決めたら絶対に引かないもんな」
駆け出そうとする彼女を、彼はもう一度だけ引き寄せた。これが最後になると分かっていたから。ルートヴィヒは彼女の柔らかな唇を食むように深く、貪るように熱を求めた。髪に指を差し込み、その香りと、震える吐息のすべてを自分の肺に閉じ込めようとする。
「わかった。……おれの手、離してやるよ。エルイーゼが守りたいもん、ちゃんと守ってきな。でも……あと十秒だけ。十秒だけは、おれのエルイーゼでいて」
まるで砂時計の砂が落ち切るのを必死に手で塞ぐ子供のように、何度も何度も、角度を変えて求め合う。エルイーゼもまた、彼の舌先が触れるたびに背中を震わせ、これが永遠に続けばいいと願うように、彼の服を強く掴み返した。わずかに唇が離れた隙間に、熱い吐息がこぼれ落ちる。
「大好きよ、ルートヴィヒ。……さようなら」
最後に一度だけ、彼の唇を慈しむように甘く噛み締めると、エルイーゼは突き放すようにその腕をすり抜けた。
屋敷の廊下を抜けた先の暗がり、壁にもたれて懐中時計を眺めていたフェリックスは、戻ってきた妹の姿に目を見開いた。
「……エルイーゼ? どうして、君は今頃……」
問いかけようとしたフェリックスは、しかし言葉を飲み込んだ。これまでに見たことがないほど激しく涙を流す妹の姿に、彼女がどれほどの身を切る思いで自由を捨て、家族の隣に留まる決意をしたのかを悟ったからだ。
エルイーゼは崩れ落ちるように兄の胸に飛び込んだ。フェリックスは何も言わず、ただ震える妹をしっかりと受け止め、よく頑張ったと何度もその背を撫で続けた。




