第二十二話
それから間もなく、夜の静寂を切り裂くように一台の馬車が裏通りへと飛び込んだ。フェリックスは馬車が完全に止まるのも待たず、飛び下りるようにして階段を駆け上がる。荒々しい足音が外の廊下を震わせ、屋根裏部屋の粗末なドアが蹴破らんばかりの勢いで跳ね飛ばされた。
「ルートヴィヒ!」
怒号とともに踏み込んできたフェリックスは、ソファで安物の白ワインを煽っていたルートヴィヒの胸ぐらを迷わず掴み上げた。無理やり立たされた彼の手元からワインがこぼれ、部屋中にツンとしたアルコールの匂いが広がる。
「なんだよ。お坊っちゃんが夜更けに物騒だね」
「白々しい真似をするな。どの面を下げて……エルイーゼに、あの子に一体どんな汚い真似をしたんだ!」
最初はいつものように薄笑いを浮かべていたルートヴィヒだったが、エルイーゼの名が出た途端にその表情は一瞬で凍りついた。フェリックスはかつてないほど険しい形相で、掴んだ拳は音を立てるほど震えている。
「あの子に何を教えた。無理矢理迫ったのか? それとも得意の口八丁で騙して、断れないように仕向けたのか」
「……フェリックス、違う。聞けよ、騙したりしてない。無理矢理でもない。そんなことエルイーゼにするわけないだろ。おれは本気であの子が……本気なんだよ」
掠れた声でこぼれた本気という言葉が、むしろ火に油を注いだ。空気を切り裂くような激しい音が響く。殴られた衝撃で床に這いつくばったルートヴィヒを見下ろし、フェリックスは震える声で怒鳴りつけた。
「本気で好きになった相手の人生を、泥沼に引きずり込んでめちゃくちゃにすることが君の愛情か! あの子が今どんな目に遭っているか……今や社交界の格好の餌食だ。口さがない連中に嘲笑われて、二度と日の当たる場所へは戻れない」
叫ぶうちに、彼の拳は怒りから無力感へと震えを変えていった。彼はこの世界の不自由さを誰よりも知っている。自分たちが享受している奔放な日々なんて、高い塀の中で許されたお遊びに過ぎないことも。
「本気で好きなら、弁えるべきだったんだ。あの子がどんな場所にいて、どんなものを背負っているか、分かっていたはずだろう。……一番に守ってやらなきゃいけなかった。僕だって、あの子の兄貴だったはずなのに……」
優秀な兄や姉のように、家門を背負って完璧に生きることなどできない。だからこそ、自分と同じように自由を愛し、眩しいほどに無垢だった唯一の妹だけは、この息苦しい檻から守ってやりたかったのだ。エルイーゼをこのアトリエという遊び場に引き合わせたのは、他でもない自分だ。あの子の羽をもぎ取ったのはルートヴィヒではなく、自分の無責任な手だったのではないか。
「あの子は、僕の自慢の妹だ。……エルイーゼには、君みたいな男の隣で後ろ指を指される人生じゃなく、誰からも敬われて、一番綺麗な場所で笑っていてほしかった。僕があの子を、こんなところまで連れてきたせいだ……」
崩れ落ちるように壁に背を預けたフェリックスを前に、いつもなら減らず口で煙に巻くルートヴィヒは一言も言い返さなかった。彼はただ、切れた唇から溢れる血の混じった唾を床に吐き捨てる。
「……責任を取れ、ルートヴィヒ。一生かけて、死ぬ気で、エルイーゼを幸せにするんだ」
「……は? 何言ってんだよ、お前」
ルートヴィヒは床に這いつくばったまま、呆然とフェリックスを見上げた。あまりに現実味のない言葉に、殴られた痛みさえ一瞬忘れる。パトロンと画家という関係を越え、悪友のようにバカな遊びに興じてきた男が、今、自分に何を求めているのか。
「……修道院に送るなり、田舎の親戚の家に押し込めるなり、屋敷で謹慎させるなり、やり方はいくらでもあるさ。それがこの世界の落とし所だ。でも、そんなのはあの子の幸せじゃないだろう」
先ほどまで殺気立っていたフェリックスの瞳には、いまや深い諦めにも似た愛情の色が宿っている。それは家門を背負う貴族としてはあるまじき、けれど一人の兄としてはこれ以上ないほど切実な懇願だった。
「本気だって言葉が嘘じゃないなら、連れて行ってくれ。……それ以外に、あの子を救い出せる道はもうどこにもないんだ」
窓の外では、月が厚い雲に隠れようとしていた。
夜の冷気を纏ったまま屋敷に戻ったフェリックスは、重い足取りでエルイーゼの部屋の前へと向かう。静まり返った廊下には、主を失った幸福な未来の残骸が漂っているような気がした。妹の部屋の扉を前にして、覚悟を決めるようにして拳を当てる。コンコン、と控えめな音が響き、彼はドア越しに声をかけた。
「エルイーゼ、開けてくれるかい?」
返事がないことは分かっていて、それ以上待たずに部屋に足を踏み入れた。カウチに深く沈み込み、震える肩を抱いている妹の姿に、彼は痛ましそうに目を細める。
「……フェリックス。ごめんなさい、わたし……本当に、何も分かっていなかったの」
兄の顔を見た瞬間、彼女の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。しゃくり上げる彼女のそばに、フェリックスはそっと腰を下ろす。
「わたしが考えなしだったせいで、お父様も、お母様も……家にまで泥を塗ってしまった。わたしたちがどういう世界に生きているのか、やっと分かったわ。……なんて馬鹿だったのかしら」
「誰もエルイーゼを怒ってなんていないよ。父さんも母さんも、兄さんだって。みんな、ただ……君が壊れてしまうんじゃないかって、それだけを心配してるんだ」
「……そんなの、余計につらいわ。わたしだけならよかったのに。わたしのせいで、もうどの家からも招待状なんて届かない。お兄様の縁談だってぜんぶ壊してしまった。全部、わたしの身勝手のせいよ……」
エルイーゼは膝に顔を埋め、こぼれ落ちる涙を拭おうともしなかった。けれど、ふとした拍子に兄の拳に巻かれた包帯──あるいは赤く腫れた拳──が目に入り、彼女ははっと息を呑む。
「……ルートヴィヒのところへ行って来たんでしょう? 彼はどうしていたの? あの噂のせいで、何かひどいことが起きたりしていない……?」
その一言に、あのアトリエでルートヴィヒが吐いた言葉は、決して独りよがりなものではなかったのだとフェリックスは悟った。この子はただ騙されて丸め込まれたわけじゃない。幼い頃から人一倍感受性が強く、相手が真剣かどうかなんてすぐに察してしまう子なのだ。
もしルートヴィヒが遊び半分で近づいたのなら、彼女はもっと早い段階でその不誠実さを見抜いて立ち止まっていたはずだ。ここまでボロボロになってなお彼を案じているのは、彼の中に、自分と同じだけの真実を見出したからに他ならないのだ。
「……あいつなら大丈夫だよ。しぶとい男だからね」
フェリックスは無理に作った笑みを浮かべ、妹の冷たくなった手をそっと包み込んだ。先ほど自分が下した馬鹿げた決断が、唯一の正解であったことを確信しながら。
「明日の夜、あいつを連れて来るよ。二人で話をするといい」
「……え? そんなの無理よ、もう会えるはずがないわ」
「大丈夫だ。人払いをして、裏口で会えばいい。……最後になるかもしれないんだ。お互い話したいことがあるだろう?」
これから自分に向けられるであろう非難や蔑みなら、いくらでも受ける覚悟はできていた。家のために正しく生きることなど自分にはできない。家を守る力がないのなら、せめてたった一人の妹の心だけは守ってやりたい。
「自分に嘘をつくな、エルイーゼ。君の人生だ。君の好きなように描き直せばいい」




