第二十一話
汚れた靴をこっそり処分して、誰にも見つからないよう自室へ戻ったエルイーゼは、思い切って父の書斎を訪ねた。「ロフシュタイン卿には、わたしの口から直接お返事をしたいの」伏せられた睫毛の震えを父はどう受け止めたのか。「分かったよ」という短い答えだけが返ってきた。
それからの数日は、彼女にとって息が詰まるような苦しいような時間だった。ロフシュタイン卿は、陽だまりのように穏やかで心優しい人だ。そんな人を自分の身勝手で傷つけていいはずがない。どう切り出そうか、どう謝ろうか……。答えの見つからない問いを繰り返すうちに、運命の夜がやってきた。今夜の舞踏会、会場でお会いしたときにすべてをお話ししよう。それが今の彼女にできる、せめてもの誠意だと信じて。
会場へ向かう馬車の揺れの中では、向かい合わせに座った兄たちの声が、狭い車内に無遠慮に響いていた。
「……で、兄さん。結局どうなんだい? この前紹介されていた令嬢はかなりの美人だったじゃないか。鼻が高くて、いかにも気が強そうで……」
「外見の話ばかりするな。お前は少しは黙っていられないのか」
フェリックスが肘で兄を小突きながら面白がって茶化す。ヴィルフリートは鬱陶しそうに顔をしかめ、膝の上で手袋をはめ直した。
「いずれはこの家を任せることになるんだ。見かけが良くたって品位に欠けるようでは話にならない。相応の中身を持った女性を選ばなくては」
「へーえ。相変わらず堅苦しいね」
そんな兄たちのやり取りを、エルイーゼはぼんやりと聞いていた。わたしにはもうこの家に相応しい品位なんて、これっぽっちも残っていないのかもしれない。窓の外を流れる夜の街灯を目で追いながら、ただそんなことを考えていた。
馬車が止まり、エルイーゼは兄に手を取られて石畳に降り立つ。眩いばかりの光が溢れるホール。けれど、父にエスコートされてその扉を潜った瞬間、彼女は鼻をつくような違和感に足を止めた。
「……信じられないわ。よくものうのうと顔を出せたものね」
「本当。あんな破廉恥な真似をしておいて」
あちこちで扇が蝶の羽ばたきのように揺れ、淑女たちの口元を覆い隠す。紳士たちも露骨に顔を背け、いつもなら我先にとダンスを申し込んでくる令息たちさえ「自分は関わりがない」と言わんばかりに談笑の輪をさらに固く閉ざした。
「……エルイーゼ? 一体、これはどういうことだ」
隣を歩く父の声が困惑で強張っている。母の手がエルイーゼの腕を強く掴んだ。兄たちも会場に渦巻く異様な毒気に当てられ、立ち尽くすことしかできない。
「エルイーゼ!」
人混みを縫って、親友のシュテファニーが駆け寄ってきた。彼女はエルイーゼの青ざめた顔を見るなり、有無を言わさぬ勢いでその手を掴む。周囲の目を盗むようにして、エルイーゼを人気の少ない別室へと連れ出した。
「……エルイーゼ、私たちの仲だもの、私はあなたのことを信じているわ。でも、今……社交界中に恐ろしい噂が広がっているの」
「噂……?」
「あなたが、あなたのお兄様が後援しているあの画家と……二人きりで親密そうにしていたという話よ。もちろん私は信じていないし、絶対に何かの間違いだってみんなに言ってる。だけど……」
エルイーゼの全身から血の気が引いていく。誰かに見られていたのだ。人の目は誤魔化せない。口に戸は立てられない。そんな当たり前の残酷さを、これ以上ないほど生々しく突きつけられる。絶句する彼女の背後で、部屋の扉が勢いよく開いた。
「シュテファニー。こんなところにいては駄目よ、戻りなさい」
現れたのはシュテファニーの母親だった。かつてはエルイーゼを実の娘のように慈しみ、いつも穏やかな笑みを向けてくれていた夫人。けれど今の彼女の瞳は不安に揺れ、その奥には拭いきれない軽蔑の色が混じっていた。
「お母様、でも……!」
「いいから。行くわよ」
夫人はエルイーゼを一瞥すると、娘を連れて足早に去っていく。一人残されたエルイーゼは、その場に崩れ落ちそうになった。家族の顔が浮かぶ。今頃、広間で針のむしろに座らされているに違いない両親や兄たちのことを思えば、今すぐ駆け戻るべきだった。けれど、足が震えて一歩も動けない。
そこへ、しんと冷え切った廊下の向こうから、切迫した響きが飛び込んできた。それは優雅な歩調などとうに投げ捨たように、剥き出しの焦燥を孕んでいた。
「……エルイーゼ嬢、やっと見つけた。探しました、どうしても二人で話がしたくて」
足音の主はロフシュタイン卿だった。いつもは落ち着き払っている表情には隠しきれない動揺が走っており、彼は周囲を気にするように扉を閉めると、エルイーゼに向き直った。
「……僕は貴女のことを好ましく思っていました。貴女と一緒にいると、本当に心の底から安らげると。……ですが僕の両親はもう、今の状況を許してはくれないでしょう。……残念ですが、婚約の申し込みは白紙に戻させてください」
「……いいえ、当然のことだわ。ロフシュタイン卿」
エルイーゼは深く頭を下げた。泣く資格なんてどこにもないと痛いほど分かっているのに、視界は涙で滲む。
「本当にごめんなさい。わたしのせいで、あなたのような素晴らしい方まで傷つけることになってしまって。どんなに謝っても足りないわ……」
「……エルイーゼ嬢」
ロフシュタイン卿がすがるような、確信を持ちたいような瞳で彼女を見つめた。
「最後に、これだけは聞かせてください。あの話は……ただの根も葉もない噂ですよね?」
その問いは彼女への最後の救いだったのかもしれない。「嘘よ」と一言言えば、彼は、あるいは世界は、まだ彼女を許してくれたかもしれない。けれどエルイーゼの唇は、別の言葉を選んでいた。
「……いいえ、嘘じゃないの。ごめんなさい。これ以上、あなたに不実な真似はしたくないわ……」
ロフシュタイン卿の顔から、わずかに残っていた期待が消える。彼は悲しそうに、けれど納得したように一度だけ頷くと、黙って部屋を後にした。
あんな愚かな真似をして。その上、勇気が出せずに事実を伝えるのを先延ばしにしたせいで。あんなに優しかった人を、一番最悪な結末で傷つけてしまった。自分の身勝手さが、ついに取り返しのつかない破滅を招いたのだ。
エルイーゼはこみ上げる嗚咽を必死に押し殺した。熱い涙を何度も手の甲で拭い、意を決して廊下へと飛び出す。するとそこには、焦燥した面持ちで四方を見渡していた家族の姿があった。
「エルイーゼ!」
父の切羽詰まった声が響く。駆け寄ってきた家族の顔を見た瞬間、彼女はすべてを悟った。会場を埋め尽くす毒々しい噂は、すでに彼らの耳にも届いてしまったのだ。母は何も言わず、震えるエルイーゼの肩を引き寄せ、折れそうなほど強く抱きしめた。ヴィルフリートは腕を組んだまま床の一点を見つめ、これからの行く末を案じるように深く考え込んでいた。
「……父さん、僕はルートヴィヒと話をしてきます」
唐突に口を開いたのはフェリックスだった。いつもの軽薄な調子は消え、その瞳には冷たい怒りが宿っている。父の返事も待たず、彼は一人で足早に出口へと向かっていった。
家族に守られるようにして会場を後にする道すがらも、容赦のない審判が彼女を追いかける。
「……恐ろしい。あの家に娘を嫁がせなくて正解だった」
「本当。末娘のあんな振る舞いを許すなんて、品位が知れるというものだわ」
「次男坊も次男坊だ。事情を知っていて、あんな素性の知れない画家を連れ回していたのではないか」
向けられる言葉の刃は、エルイーゼ一人を切り刻むだけでは留まらなかった。求めた自由の代償は、誇り高い両親の背を傷つけ、兄たちの輝かしい未来にまで泥を塗る。もはや自分一人の問題ではないのだ。馬車に揺られながら、エルイーゼは愛する家族を地の底へ引きずり込んでしまった後悔に、ただただ身を震わせることしかできなかった。




