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第二十話

 屋敷を飛び出した足は、導かれるようにあの薄暗い路地裏へと向かっていた。お目付役の侍女もつけず、淑女にあるまじき勢いでエルイーゼは古びた階段を駆け上がる。心臓の鼓動がうるさいのは走ったせいだけではない。


 ルートヴィヒに会いたくて、ただ彼の気持ちが知りたくて仕方がない。わたしさえ知らなかったわたしを鮮やかに描き出してくれた彼なら、この胸を切り裂くような焦燥にどんな色をくれるだろう。


 いつも鍵なんて掛かっていない。彼はいつだって、無防備に世界を招き入れている。 エルイーゼは溢れそうになる涙を手の甲で拭うと、祈るような、それでいてすべてをぶち壊したいような衝動で、勢いよくドアを押し開けた。


「ルートヴィヒ──」


 西日の差し込む乱雑なアトリエ。キャンバスの影になった使い古されたソファに彼はいた。でも、一人ではない。

 叫びかけた言葉は中途半端に空気に溶けて消えた。彼の肩には、見知らぬ美しい女性がだらしなくしなだれかかっている。薄っぺらなガウンを一枚羽織っただけの姿で、気怠げに指先に煙草をくゆらせて。


「ねえ、もう少しだけいいでしょ? 今日はあのお堅いパトロン様も来ないってば」


「……んー、まあいいけどさ。でもあいつほんと急に顔出すんだよな。だからいつまでも居座られると困るっていうか……」


 エルイーゼが息を呑んだ瞬間、ルートヴィヒは吸い寄せられるように女性の指先から煙草を奪い取り、慣れた仕草でそれを咥えた。


「……え」


 その光景に、エルイーゼの脳裏を真っ先に掠めたのは紛れもない嫌悪感だった。 自分をミューズと呼び、あの夜に自由を教えてくれたはずの清らかな情熱は、そこには微塵もない。

 勢いよく押し開けたドアが乾いた音を立てて壁にぶつかり、煙を吐き出そうとしたルートヴィヒの視線が、入口に立ち尽くすエルイーゼを捉えた。その瞬間、彼の顔から余裕が消え失せる。


「え、……は、エルイーゼ!?」


 彼は咥えたばかりの煙草を灰皿へ放り込み、弾かれたようにソファから立ち上がる。背の高さが陽を遮り、エルイーゼに影を落とした。女性は面白がるように彼女を上から下まで眺め「あらほんと。妹ちゃんも嵐みたいに急に来たわ」と鈴を転がすような声で笑った。


「なんで……フェリックスは? 一人で来たの? こんな場所まで……」


「……なによ、これ。最低だわ」


「エルイーゼ、待って。とりあえず座ってよ、ちゃんと話を……」


「触らないでよ!」


 差し出されたルートヴィヒの手を、エルイーゼは激しく振り払った。あんなに会いたかった。あんなに、言葉を交わしたかったのに。肌に触れる指先の熱さえ、今はひどく嫌なものに思えて吐き気がする。


「……信じていたのに。わたしが、ここをどんな場所だと思っていたか……。ここは、もっと清らかで、自由で……真実だけがある場所なんだと思ってた!」


 震える声で叫ぶ彼女の視界に、イーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスが映る。しがらみから解放され、剥き出しの魂で語り合える、清らかで自由な場所。でも現実はどうだろう。扉の向こうに広がっていたのは、ただの男が女を連れ込み、だらしなく煙を分け合う俗悪な日常の吹き溜まりでしかなかった。


「……ミューズなんて嘘。わたし、夢を見すぎていたみたい。……さよなら!」


 ルートヴィヒが何かを言いかけて手を伸ばしたが、エルイーゼはそれを拒絶するように背を向けると、脱兎のごとく逃げ出した。


「エルイーゼ!」


 階段を駆け下りる衝撃が、胸の奥で砕け散った聖域の破片のように痛い。もう、あの絵の中の少女には戻れない。あのアトリエが光り輝く場所に見えていた彼女は、もう死んでしまったのだ。彼女さえ知らなかった魂を描き出してくれた魔法使いは、どこにでもいる、低俗な男に過ぎなかったのだから。


 ドレスの裾を泥に汚しながら、必死に迷路のような路地を駆け抜ける。けれど慣れない道に足を取られ、行き止まりに近い壁際で背後から強い力がかかった。


「待てってば、エルイーゼ! 頼むから止まって。お願いだから話聞いてよ」


 手首を荒々しく掴まれ、身体が強引に引き戻される。振り返れば、あの屋根裏部屋からそのまま飛び出してきたであろうルートヴィヒが、肩で息をしながら立っていた。


「……っ、離して! なんで追いかけてくるのよ!」


「……やだよ。離したら二度と捕まえられない気がするし。聞いて、さっきの。誤解させたと思うけど、あれはたまにモデルを頼んでる相手なんだって。それ以上でも以下でもないし、ほんとそれだけなんだよ」


「……嘘ばっかり。あなたがどんな人だったのか、今日よく分かったわ。バカにしないで。あなたがいくらわたしを子どもだと思っていても、もう子どもじゃないの!」


「子どもだとか思ってないよ……。いや、思ってたかもしれないけどさ、今はもう無理じゃん。……そんな目で見ないでよ、エルイーゼ」


 余裕のなさを隠そうともせず、ルートヴィヒはまくしたてるように言葉を繋いだ。髪は乱れ、汗で額に張り付いている。なりふり構わず追いかけてきたのはわかる。でも、それがなんだというの? 彼がどれほど必死であろうと、もうエルイーゼには関係のないことだった。


「……もういいわ。ちょうどよかった。わたし、結婚するのよ。ロフシュタイン伯爵家の方と。今日はそれを知らせに来ただけ」


「……は? 結婚?」


 ルートヴィヒの動きが止まった。掴んでいた手の力が一瞬だけ抜け、それからまた、縋るように強くなる。


「誰と。……嘘だろ。困らせようとして言ってんだろ」


「嘘じゃないわ。正式に申し込まれたの。それに、どうしてあなたが困るというの? わたしの結婚なんて、あなたには一欠片も関係ないでしょう!」


「……あるよ。あるに決まってんじゃん」


 勢いでそう言ったものの、ルートヴィヒは言葉に詰まった。理屈なんてどこにも落ちていないし、エルイーゼを納得させられる正論なんて一つも持ち合わせていない。彼の頭の中は今、あのアトリエの床と同じくらい、ごちゃごちゃの画材箱をひっくり返したみたいに散らかっている。

 ルートヴィヒは苦し紛れに、エルイーゼの肩をぐいと自分の方へ引き寄せた。論点をすり替えるのは、彼なりの卑怯で必死な抵抗だった。


「……エルイーゼ、そいつのこと好きじゃないでしょ」


「好きよ。とっても尊敬できる、誠実で素晴らしい方だわ。あなたと違って不躾じゃないし、薄っぺらいガウンの女性を側に置いたりもしないもの!」


「……へえ。そりゃ、そいつは真面目なやつなんだろうけどさ。……でも、エルイーゼは好きじゃないよ、そんな男」


「わかったような口聞かないでよ! 分かるわけない、わたしのことなんて……!」


「分かるよ。エルイーゼ、分かりやすいもん」


 この子の考えてることなんか、全部お見通しだ。そして自分自身が、この奔放で潔癖なお嬢様にどれほど焦がれているかも、とうに気づいていた。

 ルートヴィヒはもう一歩、彼女の吐息が届く距離まで強引に踏み込む。雪曇りの鈍い光の下で、逃れられないよう確信に満ちた声で囁いた。


「……おれのことが好きなんだ。あの橋の上で、おれを救うみたいに笑ったときから。あの酷い絵をおれに見せて、目を覚まさせてくれたときから。ずっとおれを見てたじゃん。今さら他の男のところに行くなんて、エルイーゼにできるわけない」


 絶対に手に入らない。住む世界が違う。だから当てつけみたいに他の女をアトリエに連れ込んで、自分を濁して誤魔化してきた。でももういい。どうにでもなればいい。真っ白なキャンバスみたいに清潔に、お利口に生きてきた覚えなんて最初からないのだ。


「……うぬぼれないで! そんなこと、あるわけないじゃない!」


「……じゃあなんでそんな泣きそうな顔すんの。否定してみなよ。そのロフシュタインとかいう奴のこと、心の底から好きだっておれの目を見て言えよ」


「……っ、好きよ! だってあなたと違って、あの方はとても礼儀正しくて、わたしのことも敬ってくれるわ。それに、それに……」


「……ほら、言えないじゃん。……おれだってそうだよ。さっきただのモデルなんて言ったけどさ、ほんとはエルイーゼのことばっか考えてる自分が嫌で、適当に誰でもよかっただけ。……最低だろ。自分でも格好つかないって分かってるよ」


 吐き捨てた彼の瞳は、いつもの余裕が剥がれ落ちて剥き出しの焦燥に満ちている。エルイーゼはこんなルートヴィヒを初めて見た。いつだって余裕たっぷりな顔で、わたしの動揺を面白がっていた彼が、今は見る影もなく自分に縋っている。

 彼のことも何もかも、嫌いになってしまいたかったのに。この人はわたしのために、こんなに必死になっている。それが涙が出るほど怖くて、どうしようもなく、嬉しいのだ。


「エルイーゼの心はおれが持ってるし、おれを動かせるのもエルイーゼだけ。……返してよ、おれのミューズ。他のつまんない男に、エルイーゼの時間を一秒だって分けてやるなよ」


 もう、この人をどうでもいいと思うことなんてできない。大好きだった聖域は彼自身の手で壊されて、憧れていた魔法使いは単なる男だと知ってしまったけれど、それでも好きだった。たとえ、美しかった思い出ごとめちゃくちゃに汚されたのだとしても。


「……じゃあ、本当のことを教えてよ。飾った言葉じゃなくて、あなたがわたしをどう思っているのか、ぜんぶ教えてよ」


 ルートヴィヒはエルイーゼの瞳からこぼれ落ちた涙を親指で乱暴に拭うと、そのまま奪うように彼女の唇を塞いだ。それは今までのどんな言葉より深く、彼がキャンバスに叩きつけてきたどんな色彩よりも鮮烈な答えだった。

 何度も何度も確かめるように重ねられる、少し荒れた唇から、彼の焦燥と、後悔と、そしてどうしようもないほどの愛しさが流れ込んでくる。

 エルイーゼは、彼が纏う絵具の匂いと煙草の残り香に包まれながら、ふと思った。この人が、ただの男の人でよかったのかもしれない。そうじゃなきゃ、わたしなんかが隣にいたいなんて、願っちゃいけない気がするから。


 エルイーゼもまた、二度と手放さないよう彼のがっしりとした広い背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。けれどルートヴィヒの大きな手が、ドレスの生地をたわませて腰を撫で上げ、熱い吐息と共に首筋に顔を埋められた瞬間、彼女はハッとして彼の固い胸板を力一杯突き飛ばした。


「……っ、だめ! それはだめよ!」


「は? え、何……?」


「わたし、結婚もしていない人と、こんな……こんなことできないわ! 本当はこうして二人きりで路地裏にいることだって、あってはならないことなのよ!」


 顔を真っ赤にして、乱れた髪の毛先を震える指で必死に直しながらまくしたてるエルイーゼ。彼女の正論は、先ほどまでの情熱的な空気を一瞬でぶち壊した。ルートヴィヒは呆然と彼女を見つめていたが、やがて力なく項垂れ、ずるずると壁を背にしゃがみ込んだ。


「……ひっでえ女……。……あんなに盛り上がっておいて、最後はそれかよ」


 天を仰いで前髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。深いため息をつきながらも、彼は諦めたような、ひどく穏やかな笑みを浮かべていた。


「……分かったよ。エルイーゼはそういう、お利口さんでめちゃくちゃ厄介な女の子だもんな。……おれの負けだよ」


 エルイーゼは冷たい風にさらされた頬を赤く染めたまま、彼をじっと見下ろす。ルートヴィヒは再び立ち上がると、今度は指先一つ触れずに、ただ愛おしそうに彼女を見つめた。


「……今日はもう帰りなよ。これ以上一緒にいたら約束なんか破りそうだし。……でも結婚の話は断って。いい? 絶対だからね」


「……あなたが、あのアトリエにいたような女の人たちとの交友を、一切断つっていうなら考えてあげてもいいわ」


「言われなくてもそのつもりだって。……あと、部屋も掃除する。画材もちゃんと片付けるし、あー、それから……エルイーゼが来る日はちゃんと窓を開けて空気も入れ換える。これでいい?」


 ルートヴィヒは指を折りながら、柄にもなく真面目な顔で条件を積み重ねていく。一つ、また一つと、自分にとっての自由を手放して、彼女の望む誠実を積み重ねていくたびに、エルイーゼのわだかまりは溶けていった。


「……信じてあげてもいいわ。じゃあ、さようなら。ルートヴィヒ」


「待って。最後にもう一回だけいい?」


 呼び止める声に踵を返す間もなく、引き戻された衝撃で鼻先がぶつかった。声を上げる隙も与えられず、逃げ場のない吐息が無理やり唇を塞ぐ。ルートヴィヒは今度は自分からぱっと手を離すと、顔を真っ赤にして固まるエルイーゼを覗き込んだ。彼の左の口角だけが吊り上がり、片方の頬だけに笑い皺が浮かぶ。


「……ま、真昼間だし。こんな路地裏でこれ以上すんのもさすがにどうかと思うし。今日は我慢してあげるよ」


「……っ、自分ばっかり、全部知っているみたいな顔しないで……!」


 狡賢い大人の男を気取った言い草に、エルイーゼは拳を握りしめたまま今度こそ路地を駆け出した。もう戻れない。 お利口な人生も、完璧な結婚も、全部あの路地裏に置いてきてしまった。だけれどただの男になった魔法使いが、泥にまみれた手で、もう一度だけ美しい夢を見せてくれるというのなら。その代償として淑女の誇りを投げ打つことなど、今の彼女にはちっとも惜しくはなかった。

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