第十九話
「……これ、エルイーゼの絵だし。あげるよ」
ルートヴィヒは今やウィーン中の蒐集家が喉から手が出るほど欲しがっている名画を、まるで食べかけの林檎でも分けるような無造作さで差し出した。
「えっ……ほんとうに? でも、あなたの作品よ。しかも賞をとったのよ。軽々しくもらえないわ!」
「いいよ。ていうかさ、勝手にモデルにしちゃってごめん。……でも描きたかったものは描けたから、おれは満足。それはエルイーゼに持っててほしい」
エルイーゼは何より愛おしく、そのキャンバスを抱きしめた。屋敷に戻るとさっそくフェリックスと結託し、父に見つかる前にモーニングルームの一番目立つ壁へ勝手にその絵を飾った。
毎朝、窓から差し込む光と共に、エルイーゼはそこに描かれた自由な自分自身と目が合う。筆致のひとつひとつに宿るルートヴィヒの情熱と、自分をミューズと呼んだ彼の体温。それらを感じるたび、彼女の胸は形のない幸福で満たされた。
そんな風にしてあの一夜の余韻を大切に抱きしめていたいエルイーゼだったが、新しい朝も気が付けばいつの間にか、見慣れた賑やかさに塗り替えられていった。
「ちょっとフェリックス! あなた今、しれっと六枚目を口に放り込んだわね。わたしの分がなくなるじゃない!」
「言いがかりはやめてくれ、エルイーゼ。僕はまだ三枚目だよ。君こそ、その食い意地をルートヴィヒに描いてもらったらどうだい?」
モーニングルームに朝から程度の低い兄妹喧嘩が響き渡る。一人五枚までと決められたクッキーを巡り、エルイーゼとフェリックスは火花を散らしていた。
「……いい加減にしろ。朝からクッキー一枚でみっともない」
見かねたヴィルフリートが読みかけの新聞を机に叩きつけた。彼は呆れ果てた顔で立ち上がると、「わかったから。厨房にもっと焼くよう頼んでこよう。それで満足か」と、二人を冷ややかな視線で射抜いて部屋を出て行く。
数分後、彼が溜め息をつきながら戻ってくると同時に、父が今にも鼻歌を歌い出しそうなほど嬉しそうな顔で現れた。
「エルイーゼ、良い報せだぞ」
「まあ……どうしたの? お父様。わたしの絵をギャラリーに飾ってくれる気にでもなった?」
エルイーゼが小首をかしげると、父は一層笑みを深めた。その表情は、まるで長年抱えていた難題が魔法のように解決したかのような、清々しい喜びに満ちている。彼は娘の正面に腰を下ろすと、甘いクッキーの香りを一変させるような言葉を響かせた。
「いや、それ以上の誉れだよ。ロフシュタイン家からお前へのプロポーズの許可を求められた。……ユリウス殿から、正式な申し入れだ」
「……えっ⁉︎」
エルイーゼの手からクッキーが音を立てて食器に落ちる。驚きに目を見開く彼女の横で、それまで静かに紅茶を啜っていた母が、弾かれたように身を乗り出し、花が綻ぶような華やかな笑みを浮かべた。
「まあ! あの方なら家柄も、立ち振る舞いも、そして何よりその誠実な人柄も申し分ないわ。エルイーゼ、こんなに素晴らしい縁談は他にはありませんよ」
母の並々ならぬ乗り気ぶりに反して、厨房から戻ってきたばかりのヴィルフリートと、先ほどまでクッキーを頬張っていたフェリックスは、即座に苦虫を噛み潰したような顔をする。
「早すぎませんか。エルイーゼはまだ、世間というものを何も分かっていない。ロフシュタイン卿に嫁ぐということは、やがては伯爵家の女主人となるということですよ」
「同感だね。こんなお転婆に伯爵夫人の重責が務まるとは思えないな。ロフシュタイン卿もよほどの物好きだ」
「早いことはないさ、エルイーゼももう十八だ。今年デビューした令嬢たちも次々と婚約発表が続いている。兄さんのくせに、自分の妹に対して随分な言いようじゃないか。家族が信じてやらなくてどうするんだ」
「でも姉さんが婚約したのは二十一でしたよ。エルイーゼとは比べ物にならないくらいしっかりしていて、社交界の花形だったマリア姉さんでさえ、それだけの時間をかけたんだ!」
フェリックスがここぞとばかりに反論の声を上げた。椅子から身を乗り出し、まるで自分がプロポーズを拒否するかのような剣幕だった。しかし、父は困った顔でエルイーゼを見つめ、それから静かに首を振る。
「マリアの時は、求婚者が有り余るほどいたから本人に任せていただけだ。……だがエルイーゼ、お前の場合は舞踏会でも度々逃げ出すものだから、最近では噂が広まって候補もすっかりいなくなってしまってね」
「そうよ、エルイーゼ。あんなに優しく、あなたのすべてを……その少し変わった感性まで含めて受け入れようと言ってくださる方は、もう二度と現れないかもしれないわ。ユリウス様は、あなたの自由なところに惹かれたとおっしゃっていたそうよ」
「親としては、ぜひ彼と幸せになってほしいと思っている。……だが決めるのはお前だ。エルイーゼ、お前はどうしたい?」
兄たちは不機嫌そうに黙り込み、両親は期待に満ちた眼差しを向けている。壁に飾られたルートヴィヒの絵の中で、自由を謳歌するように笑う自分の姿が、今の自分を嘲笑っているのか、あるいは励ましているのか、エルイーゼには分からなかった。
「……わたし」
唇を微かに震わせ、エルイーゼは言葉を絞り出そうとした。喉の奥まで「はい」という言葉は出かかっている。だって、ロフシュタイン卿はあんなに優しい。趣味も合うし、自分を尊重してくれる。
父が言う「もう他に候補がいない」という話も、逃げ出してばかりいた自分を振り返れば、見ないふりをしていただけで当然の報いだと納得できた。
「わたしは……」
ここで微笑んで承諾すれば、すべてが丸く収まる。母は喜び、父は安堵し、兄たちは文句を言いながらも結局は祝ってくれるだろう。結婚するわ、と言わなくてはいけない。そう言いたいのに、なぜか胸の奥が、冷たい雪を飲み込んだように震えて言葉が出てこない。
「……、ごめんなさい。分からないわ、今は……」
視界の端で、ルートヴィヒが贈ってくれた肖像画の自分がゆらりと揺れた。キャンバスの中の彼女は夜の星さえ味方につけて、無邪気に自由に笑っている。けれど今の自分は、あの絵の中の少女とはまるで別人だった。
「時間が欲しいの! お願い、一人にして……!」
椅子を蹴るような勢いで立ち上がると、エルイーゼは家族の困惑した視線を振り切って、モーニングルームから飛び出した。背後で両親やヴィルフリートの呼ぶ声がしたが、振り返る余裕なんて一欠片も残っていない。
ドレスの裾を乱暴に掴み上げ、なりふり構わず階段を駆け上がる。自室になだれ込むなり、エルイーゼは後ろ手で鍵を閉め、そのまま扉に背中を預けて床にへたり込んだ。
「……わたし、どうしたらいいの?」
荒い呼吸だけが静まり返った自室に虚しく響く。そう問いかけたくなる相手は、家族でも、ましてや求婚者のロフシュタイン卿でもなかった。
「ルートヴィヒ……」
彼なら今のわたしをどう見るだろう。わたし自身でさえ気づいていなかった、檻を壊して飛び出そうとする魂の形を、あのフェルディナント橋の夜に見つけ出し、キャンバスに叩きつけてくれた彼ならなんて言う?
「いいんじゃない? 伯爵夫人なんて最高に贅沢な身分じゃん」と背中を押す? それとも「やめときなよ、エルイーゼ。そんな窮屈な場所に収まるなんて、冗談にしちゃ傑作だけど」そんなふうに、すべてを笑い飛ばして引き止めてくれる?
世界で一番自由な女の子に、あなたはどんな言葉をくれるの。
そんな考えが浮かんだ瞬間、突き動かされるように、エルイーゼは顔を上げた。 乱れた髪を整えることも、付き添いを呼ぶこともしない。彼女は震える手でクローゼットから地味な外套を掴み取ると、裏階段へと向かって走り出した。




