第十八話
秋の終わりを告げる冷たい雨がやむ頃、ウィーンの街はしんしんと降り積もる雪によって、真っ白に塗り替えられた。馬車の車輪の軋みさえも吸い込まれるような静かな冬の夜、リーベンフェルス一家はロフシュタイン伯爵家の晩餐に招かれていた。
大々的な舞踏会やパーティーではなく、あくまで家族ぐるみの私的な夕食会である。
こうした集まりが最近妙に増えていた。自分たちの屋敷に招くこともあれば、こうして足を運ぶこともある。
何かが、確実にわたしの頭越しに進んでいる気がするわ。
エルイーゼは目の前に運ばれてきた一皿を見て、確信に近い予感を抱いた。そこには芳醇な香りのレバーケーゼのソテーが、最高級の銀食器に澄ました顔でのせられていたのだ。
「エルイーゼ嬢、お口に合うと良いのですが。以前、これがお好きだと伺ったものだから」
「……まあ。覚えていてくださったのね、ロフシュタイン卿」
「もちろんだよ。貴女の話はどれも印象的で、忘れる方が難しい」
にこやかに微笑むユリウスの、淀みなく自然なエスコート。親たちの間では、すでに好物まで把握済みの仲という事実が積み上げられている。彼は次に、隣に座るフェリックスへと軽やかに話題を振った。
「フェリックス殿。貴殿は芸術に大変造詣が深いと伺いました。社交界でも、貴殿が後援している画家の噂を耳にしますよ」
「おや、光栄だね。……実は今、もっとも目をかけている画家がおりまして。少々性格に難はありますが、その筆致には魂を射抜くような力がある」
フェリックスが自慢げに語る画家の正体を、エルイーゼはもちろん知っている。今頃彼は、暖炉の火も消えかけた薄暗いアトリエで、一人でパンの耳でもかじっているのだろうか。
楽しげに談笑するユリウスとフェリックス。そして満足げに頷き合う両家の両親たち。エルイーゼは目の前の極上のレバーケーゼを口に運びながら、アトリエに置いてきたあの丸っこいフェリックスのスケッチを思い出していた。
そんな冬の晩餐会が何度か繰り返され、いよいよ季節が深まりきったある夜のこと。
エルイーゼは自室のソファに身を投げ出し、手持ち無沙汰に天井の装飾を眺めていた。舞踏会で窮屈なドレスに締め上げられないのは平和でいいけれど、かといって刺繍をするのも、読み飽きた騎士物語を辿るのも、今夜の彼女の気分にはこれっぽっちも合わない。
「何か、胸が躍るような……例えば、あのレモネードの泡が弾けるような出来事でも起きないかしら」
そう溜息をついた矢先だった。 扉の向こう、階下から静寂を切り裂くような騒がしい足音と話し声が響いてきた。怒鳴り声ではない。何かにひどく興奮し、抑えきれない喜びが爆発したような、そんな種類の騒ぎだ。
「……面白いことの予感だわ!」
好奇心が退屈を塗りつぶす。彼女は裸足にスリッパを引っ掛けただけの姿で部屋を飛び出し、広間へと続く大階段に駆け寄った。
手すりから身を乗り出し、階下を覗き込むと──そこには雪を被った外套も脱ぎ捨てぬまま、上気した顔で立ち尽くす二人の男がいた。
「ルートヴィヒ、フェリックス? 一体どうしたっていうのよ、こんな夜更けに」
エルイーゼが声をかけながら階段を駆け下りると、二人と視線がぶつかる。弾かれたように顔を上げたフェリックスは、これまで見たことがないほど目を輝かせていた。
「エルイーゼ、信じられるかい! ついにやったんだ。彼が、僕たちが目をかけていた彼が、本物に、真実認められたんだよ!」
「えっ……フェリックス、落ち着いて」
「落ち着いていられるか! レンブルク侯爵夫人のサロンで最優秀賞が決まった。審査員たちの間では議論が分かれていたが、最後に夫人自らが栄誉を授けてくださったんだ。あの老練な宮廷画家たちを出し抜いて、ルートヴィヒの作品が頂点に立ったんだよ!」
フェリックスはもはや貴族の端くれとしての矜持もどこかへ放り投げ、執事が差し出した湯の入ったボウルも無視して広間を突き進み、ルートヴィヒの肩をバシバシと叩いた。
普段の余裕はどこへやら、自分の選美眼が、そして大切に育ててきた才能が世界を跪かせた事実に、魂の底から酔いしれている。
「どうだい、見てくれ。この男の勝ち誇ったような……いや、少しは勝ち誇れよ、ルートヴィヒ。君は今、このウィーンで一番価値のある筆を手に入れたんだぞ!」
一方で当の本人は、フェリックスが「とっておきのヴィンテージを開けるんだ!」と騒いでいる傍らで、階段の中ほどで立ち止まったエルイーゼをじっと見つめたまま黙り込んでいた。
「おめでとう、すごいわ。あなたの魔法が、とうとう世界を屈服させたのね。……ルートヴィヒ? どうしたの?」
返事すらしない様子にエルイーゼが首を傾げたその瞬間。彼は何かに突き動かされるように、迷いのない足取りで階段を登った。そして驚く間もなく、エルイーゼの脇に力強く手を差し入れると、まるで壊れ物を扱うような慎重さと、抑えきれない情熱を込めて、彼女の体を宙に抱き上げた。
「わっ、ちょっと……!」
そのまま、残りの三段ほどの階段を軽やかに飛び下りる。けれど、彼はすぐには床に下ろそうとしなかった。抱き上げたまま、腕の中に閉じ込めるようにして、ぐっと力を込めて抱きしめる。
「……ねえ、エルイーゼ。エルイーゼはさ、おれのミューズだよ。まじで」
耳元で囁かれた掠れた声の、真っ直ぐすぎる言葉の響きに、エルイーゼは言葉も返せずに顔を真っ赤に染めてしまった。ようやく床にそっと下ろされたとき、足は地に着いているはずなのに、彼女の意識はまだふわふわと浮いているような心地だった。
「……わたしがミューズだなんて、そんな。あなたの素晴らしい才能が、この栄光を呼び寄せたのよ! おめでとう、ルートヴィヒ」
「いや、ほんとにエルイーゼのおかげだよ。エルイーゼのさあ、あの酷い……や、特徴的な絵を見てようやく気づいたんだよね。技巧なんかあとからいくらでもついてくるんだなって。大事なのはそこじゃなくて、おれにしか見えていないものを、おれにしか描けない熱量で、キャンバスに叩きつければいいんだって」
「ちょっと待って。今酷いって言わなかった? 誤魔化されないわよ!」
「ごめんって、でも聞いて。……だからさ、あの夜フェルディナント橋で描いたエルイーゼをキャンバスに描き直したんだよ。誰にも邪魔されずに檻の中から連れ出した、世界で一番自由な女の子を」
彼は少しだけ真面目な顔をして、でもやっぱりどこか飄々と、喜びに満ちた少年のような瞳でエルイーゼを見つめた。あのアトリエで「自分は蟻だ」と絶望していた影はもう、粉雪に溶けて消えていた。
「それ見せたらさ、サロンの連中黙っちゃった。……ありがとね。描かせてくれて。あの橋の上で、エルイーゼがあんなふうに笑ってくんなきゃ、おれは今頃、運河の底で魚と踊る趣味に目覚めてたかもしれないし」
「……わたしが、あなたの絵を救ったの?」
「そうだよ。エルイーゼのおかげ」
エルイーゼにとって、この絵描きが語る言葉ほど胸を熱くさせるものは他になかった。彼女はたまらなくなって、満面の笑みでルートヴィヒに抱きつくと、その腕の中でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「……わたしが、あなたのミューズ!? でも、そうね、認めてあげるわ。わたし以上に、あなたを奮い立たせられる人間なんて、きっとこの世にいないもの!」
「あはは、そうだね。最強のミューズ様だわ」
そこへ上機嫌の極みに達したフェリックスが、勢いよく二人の肩に腕を回して割り込んで来た。三人の笑い声が、静まり返った屋敷に高らかに響き渡る。
「その通りだ。これこそが芸術の勝利、我々の手にした栄光だよ! 歴史的な夜の始まりだ。最高級のワインを持ってこさせよう!」
「ええ、賛成だわ。お祝いしましょう!」
黄金色の光が溢れる広間は、三人が放つ熱狂の渦に包まれていた。絶望を脱ぎ捨てた芸術家と、その才能を信じ抜いた審美家。そして、彼らに新たな命の息吹を吹き込んだ奔放なミューズ。
運命が劇的に動き出した高揚に、彼らはただ子供のように身を任せてはしゃぎ合った。
この直後、騒ぎを聞きつけたヴィルフリートから「やかましいぞ。一体何時だと思っているんだ!」と三人まとめて雷を落とされる運命など、今の彼らには瑣末な問題でしかなかった。
窓の外では雪がしんしんと降り積もり、世界を白く染めていく。けれどリーベンフェルス邸の広間だけは、春の先駆けのような輝かしい光と、勝利の美酒を求める無邪気な笑い声が、いつまでも止むことはなかった。




