第十七話
ところが、そんな悪事を共にした翌日から、両親からは彼との仲を執拗に問われ、屋敷には彼からのものだという花や手紙も届き始めた。ユリウス本人も追及を逃れるためなのか、それとも本当に楽しんでいるのか。
社交界の波に揉まれ、エルイーゼが心からくつろげる場所は、あの傲慢な画家が毒づくアトリエだけだった……はずなのだが。
「おれには才能がないんだ……」
キャンバスの前にうなだれるルートヴィヒは、まるで魂の抜けた抜け殻のようだった。
最近、このアトリエの扉に鍵がかかることはない。フェリックスが彼を呼び出す際、ドアが開くまで執拗に叩き続けて近所迷惑になるのを嫌い「もう勝手に入れよ」とルートヴィヒが匙を投げたのだ。おかげでエルイーゼたちは、気兼ねなく上がり込むのが習慣になっていた。
「ねえ、ルートヴィヒ。そんなに落ち込まなくても、あなたの絵はあんなに素敵じゃない。……ねえ、聞いている?」
エルイーゼが恐る恐る肩を叩いても、彼は虚空を見つめるばかり。会話すらままならない重症ぶりに、彼女は隣で悠然とソファに座っている兄へ向き直った。
「フェリックス、どうしてこうなっちゃったの? 本人に聞いても、ちっとも要領を得ないんだもの」
「……ああ、それがね。昨夜、二人でレンブルク侯爵夫人のサロンに出席したんだ。そこで当代随一と言われる宮廷画家の新作や、話題の若手彫刻家の作品を一気に見せられて」
「……それで?」
「圧倒されちゃったみたいなんだ。天才たちが放つ、有無を言わせぬ技量と完成度にね。それで今の彼は、画材を見るのも嫌なほど打ちのめされているというわけだ」
「そんなの、比べたって仕方ないじゃない。ルートヴィヒにはルートヴィヒにしか描けないものがあるわ!」
「そう言うな。芸術家という生き物は、自分より高い山を見せられると、自分が蟻にでもなったような気分になるものなんだよ」
フェリックスは「芸術家の繊細さというやつだね、実に絵になるじゃないか」と、相変わらずどこか他人事のように面白がっている。
「……蟻にでもなったような気分? あなたが?」
エルイーゼは床で縮こまっている背中を見つめた。あの夜、橋の上で自分を射抜くような目で見つめ、自由への高揚さえもスケッチ帳に閉じ込めたあの傲慢なほどの自信家はどこへ行ったのか。
「ねえ、しっかりしてよルートヴィヒ! あなたが描いてくれたわたしが、わたしはあんなに好きだったのに。檻の中から無理やり連れ出したくなるくらいの女の子を、あなたはあんなに鮮やかに描いてくれたじゃない!」
精一杯の励ましだった。けれど床の住人と化した彼は、地面に顔を伏せたまま消え入りそうな声で返す。
「……エルイーゼが可愛いからじゃん? 別におれの腕とか関係ないし。モデルが良ければ誰が描いたってそれなりに見えるんだよ……」
「……っ! そこは自分の腕を誇ってよ!」
「ああ、もう。埒が明かないなあ」
フェリックスがやれやれと立ち上がり、足元に転がっていた煤けたスケッチ帳と鉛筆を拾い上げた。そしてそれを、有無を言わさぬ手つきでエルイーゼの手に押し付ける。
「エルイーゼ、君が描いてごらん。モデルは僕だ」
「……え? なんでわたしがフェリックスを描かなくちゃいけないの?」
「いいから。ほら、そこへ座って僕をスケッチするんだ」
「どうしてよ。それにどうせなら、もっと描いていて胸が躍るようなものを描かせて! フェリックスなんて毎日見飽きているわ!」
つい勢いで言い過ぎてしまったが、フェリックスは「手厳しいね」と笑って受け流し、優雅にソファに腰を下ろした。エルイーゼは不満げに大げさなため息を吐きつつ、しぶしぶと鉛筆を走らせ始める。
「……できたわ。文句は受け付けないから!」
数分後、エルイーゼは半ば投げ出すようにスケッチ帳を兄に突き出した。フェリックスはそれをまじまじと眺めると、おもむろに床のルートヴィヒの鼻先に突きつける。
「ほら、ルートヴィヒ。君の言う通り、モデルさえ良ければ誰が描いてもそれなりになるのか、確かめてみるといい」
死んだ魚のような目でのろのろと顔を上げたルートヴィヒが、その紙面に視線を落とす。一瞬の沈黙ののち、彼の肩は不自然に小刻みに震え出した。
「……っ、ふ、はは……」
スケッチ帳には輪郭がやけに丸っこく、高慢な笑みを浮かべたフェリックスが鎮座していた。妙にふてぶてしくて、それでいて愛嬌のある曲線で構成された、なんとも腹立たしい顔である。
「……下手くそ……」
彼は鼻で短く笑うと、地面に沈んでいた己を拾い上げるようにして、ゆっくりと立ち上がった。さっきまで才能の不在に絶望していた悲劇の影はどこへやら。その瞳には、ひどく生命力に溢れた性格の悪い光が戻っている。
「なんだよこれ、顔丸すぎじゃん。……でも確かにフェリックスってこういういけ好かない顔してるわ。妙に納得感あるな」
「心外だね。僕は令嬢たちから、よく彫刻のような横顔だと溜息をつかれる身なんだけど」
「彫刻ねえ……。でもエルイーゼにはこう見えてんだもん。お前のその、他人を食ったような余裕たっぷりの態度が、この絶妙な丸みに凝縮されてるんだ」
「そうよ! 嘘なんてまったく描いていないわ。毎日家でふんぞり返っている時のフェリックスは、まさにその絵のままなんですもの」
二人は「そうだよねー」とばかりに顔を見合わせ深く頷き合った。フェリックスは呆れて肩をすくめたが、その口元には満足げな笑みが浮かんでいる。ルートヴィヒの瞳からは先ほどの濁った影が消え、今やエルイーゼの拙い線をなぞる指先には熱が宿り始めていた。
「……ま、おれが描かないと、こいつの顔は芋みたいなまま後世に残っちゃうわけだ。エルイーゼ、それ貸して」
彼は軽く鉛筆を奪い取ると、迷いのない動作でスケッチ帳の新しいページをめくった。
荒治療もいいところだったが、エルイーゼという特効薬は、絶望の底にいた芸術家を無理やり引きずり上げることに成功したらしい。隙間風が運んでくる冷気が、冬の確かな足音を忍び込ませるアトリエに、ようやく鉛筆が走る小気味よい音が響き始めた。




