第十六話
きらびやかなシャンデリアが輝く大広間。エルイーゼは両親や兄が他の貴族と談笑に耽った一瞬の隙を突き、今日も今日とてその場を抜け出した。
そのまま彼らと一緒にいれば、家格の釣り合うどこかの令息を紹介され、断る間もなくダンスカードを埋め尽くされてしまう。背後から聞こえる賑やかな楽団の演奏を追い越し、柱の陰でようやく一息ついた時、突然声がかかった。
「お久しぶりです、リーベンフェルス嬢。今日はドレスの裾を気にする必要もなさそうだ。ここは競馬場の芝生より、ずっと足元が安全ですからね」
その言葉に、エルイーゼの脳裏にあの日の光景が鮮明に蘇る。競馬場で砂埃に巻かれていた彼女にレモネードを差し出してくれた──社交界でも名高い伯爵家の嫡男、ユリウス・フォン・ロフシュタイン卿。舞踏会で注目の的であるはずの彼は、なぜかエルイーゼと同じように、喧騒を避けた薄暗がりに馴染んでいた。
「……まあ。ロフシュタイン卿!」
「これほどの大舞台で、またご家族の目を盗んで迷子になっているとは。相変わらず、じっとしているのが苦手なようだ」
「お見通しなのね。両親や兄たちに捕まると、次から次へと見知らぬ方を紹介されて……まるで値踏みされているような気分になってしまうのですもの」
「分かりますよ。僕も先ほどまで母に、どこの令嬢が家格に合うかという講義を延々と聞かされてきたところです。おかげで逃げ出す足取りだけは一流になりました」
レモネードを飲み終わるまでのひと時を過ごしたあの日、二人はなぜか意気投合していた。ルートヴィヒに「猫を被らなきゃいい」と唆され、半ば自暴自棄になってエルイーゼは彼にすべてをぶちまけたのだ。
「馬を見ていたらレバーケーゼが食べたくなった」だの「持参金目当ての男なんて全員馬に蹴られればいい」だのと。嫌われてもいい、むしろ呆れられた方が清々するとさえ思っていたのに、彼はそれらを「やはり面白い方だ」と笑って受け止めてくれた。
「今日は何を見て美味しそうだと思われましたか? あのシャンデリアが、砂糖菓子の細工に見えたりはしませんか?」
「まさか! でもあのバイオリン奏者の弓の動きは、なんだか上質なアスパラガスを捌いているように見えるわ」
「なるほど、それは新しい視点だ。ではあちらのヴィオラの方は? 僕にはチーズの塊を必死に削っているように見えますが」
「本当だわ! だめ、もうそうとしか見えない!」
扇を広げて必死に笑いを堪える。他の令息なら「はしたない」と眉をひそめるような場面でも、彼は一緒になって悪ノリをしてくれる。つまり端的に言って二人は、この社交界という窮屈な箱庭において、最高に話の合う悪友になったのだ。
「ここでお会いできるなんて本当に嬉しいわ! 今夜は柱の彫刻とお喋りする羽目になるかと思っていたの」
「僕もですよ。まさかあの競馬場での続きがこんなに早くやってくるとは」
しかし。二人がそんな風に、誰にも邪魔されない友人としての再会を喜んでいた時。
「あら、なんて楽しそうなの……!」
「本当ですわね。あんなに自然に笑い合って」
背後から響いたのは、獲物を見つけた鷹のような鋭さと、底抜けの歓喜を含んだ声だった。振り返ればそこには、リーベンフェルス男爵夫妻とロフシュタイン伯爵夫妻が、まるで長年の戦友のように肩を並べて立っている。
「あなた、ご覧になって。うちのエルイーゼが壁の花にもならず、あんなに楽しそうに殿方と!」
「信じられん。いつもなら今頃、給仕から皿を奪って物陰でクラプフェンを頬張っている時間だというのに」
「見ろ。舞踏会が始まるや否やバルコニーの影に消える放蕩息子が、淑女の手を取ろうとしているではないか!」
「ええ、普段は『社交界の空気は肺に悪い』などと不敬なことを抜かすユリウスが、あんなに熱心に口を動かして……」
何しろ、隙あらば逃げ出して親の胃に穴を開けてきた二人が楽しげに喋っているのだ。家格は完璧、年齢も釣り合う。両家の親たちの間で、目に見えない速さで固い握手が交わされた。
「リーベンフェルス男爵夫人、これはきっと神のお導きですわね」
「全くだわ、伯爵夫人。今すぐ向こうの特別席で、具体的な……その、将来の日程について、ゆっくりと、ね?」
じわじわと、包囲網が二人を飲み込もうとしていた。エルイーゼとユリウスは顔を見合わせ、引きつった笑いを浮かべながら慌てて弁明を試みる。
「待ってお母様、誤解よ。ただバイオリンの弓がアスパラガスに見えるという話をしていただけで……」
「母上、僕たちはただの友人であって、決してそんな将来だとかは……」
しかし、喜びで理性を吹き飛ばした親たちにそんな理屈が通じるはずもなかった。彼らの耳にはすでに結婚行進曲が鳴り響き、視線は式場の花飾りの色を選んでいるかのようだった。
「……ねえ、ロフシュタイン卿」
「ええ、リーベンフェルス嬢。分かっています」
一瞬、視線が火花を散らすように交差した。二人に共通しているのは突拍子もない感性だけではない。
この窮屈な社交場から逃げ出すための、鍛え上げられた逃走本能だ。示し合わせたかのように、二人は鮮やかに身を翻した。ドレスの裾を踊らせたエルイーゼと、燕尾服をなびかせたユリウスは、驚愕に目を見開く両親たちを置き去りにし、人混みのわずかな隙間を縫うようにして駆け出す。
「やったわ! 見事な逃げっぷりだわ、わたしたち」
「全くだ。……ですが、明日からの追求が恐ろしいことになりそうですね」
背後から響く動揺の声を夜風に流し、二人はバルコニーの重たいカーテンの向こう側へと滑り込む。息を切らす二人の笑い声が、悪友の誓いのように夜に響いていた。




