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第十五話

「楽しかった……! なんだかとっても爽やかな気分だわ。そうだ、さっきの林檎ジュース、本当は結構美味しかったのよ。自由の味よ。屋根裏部屋で飲んだ、あの茶葉だらけの紅茶と同じくらいね」


 酒場の喧騒を離れ、城壁の先の市街へと続く橋の上。エルイーゼは夜風にマントをなびかせ、満天の星空の下で声を弾ませた。冷たい風に吹かれた瞬間に憑き物が落ちたように機嫌を直した彼女は、今や上機嫌に鼻歌まで歌っている。その背後でルートヴィヒは疲れ果てて足をもつれさせていた。矛盾だらけの主張をなだめ、酔っ払いの野次を跳ね除け、必死に彼女を店から連れ出した苦労は何だったのか。


「……まあ、息抜きになったんなら良かったけどさあ」


「連れて行ってくれてありがとう、ルートヴィヒ! また絶対に連れて行ってね。きっとよ、約束よ!」


「えー……どうしよっかな。エルイーゼのお目付役って安酒と同じくらい体に悪そうだし……」


そんな憎まれ口を叩きながら、地面に視線を落とす。石畳を踏む彼女の靴は、埃っぽい酒場や薄暗い路地を歩き回った後だというのに、街灯の光を弾いて気高く輝いていた。

 どんなに連れ回しても、彼女はこちらの側の色に染まることはない。

 ふと胸をかすめたのは、そんな淡い諦念。けれど、鈴を振るような笑い声に弾かれるように顔を上げた瞬間、その考えは一気に吹き飛んだ。


 視線の先、そこには満天の星空を背負い、夜風に髪を躍らせながら、この上なく自由に、そして無邪気に笑っているエルイーゼの姿があった。シャンデリアの下では決して見ることのできない、安っぽくて甘い林檎ジュースの味を知った、一人の少女の、ありのままの輝き。


「……あ。……ちょっと待って」


「えっ?」


 その姿が、冷めた思考も立場の違いへの理屈も一瞬で焼き切って、あまりにも無防備にルートヴィヒの心を射抜いた。冷めた思考も、立場の違いへの理屈も、すべてが画家としての本能に塗りつぶされていく。


「……描かせて。ごめん、帰り遅くなるけど。どうしても今描きたくなった。お願い」


 彼は疲れきっていたはずの身体を突き動かされるように荷物を漁り、煤けたスケッチ帳とコンテをひったくった。いつもの気怠げな様子はどこへやら、その切実な響きにエルイーゼは戸惑いながらも、真剣な眼差しに圧されて石造りの欄干に身を預けた。


「動かないで」


 ルートヴィヒはエルイーゼの表情を、髪を、風になびく裾を、そして彼女の瞳の奥にある自由を、射抜くような、吸い込まれるような目で見つめた。エルイーゼは息を呑む。夜風は冷たいはずなのに、視線が触れる場所から火がつくように頬が熱い。沈黙に耐えきれず、彼女は得意のお喋りで誤魔化すことにした。


「ねえ、ルートヴィヒ。あなたはやっぱり、さっきの酒場みたいな場所が好きなの? 社交界は嫌い?」


「……まあ、堅苦しいのは苦手。建前ばっかりの会話とかも。でも別に嫌いってほどでもないよ。人脈増えるし、金持ちの家に飾ってある名画もタダで見れるもん。絵の勉強にはなるし、利用できるもんは利用しとけばいいじゃん」


「……あら、そうなの? まあ、それなら良かったわ!」


 彼は広い背中を丸め、視線をスケッチ帳と彼女の間で往復させながら淡々と答えた。エルイーゼは、欄干を握る手に少しだけ力を込めて微笑む。


「もしあなたが本当に無理やり連れ回されているのなら、わたし、フェリックスをこっぴどく懲らしめてやろうと思っていたのよ。でも、そうじゃないなら……いいの。それに、おかげで肖像画を描き終わってもあなたに会えるから、わたしはとっても嬉しいのよ」


「……まあ本気で嫌だったら、おれもうとっくに逃げてるし。あんなボンボンの目なんか隙をつけば逃げ放題だって」


「逃げ放題……ええ、確かにそうね! 今だって、あなたはわたしを連れ出してくれているもの」


「あ、動かないでよ。……でもいいね、今のその顔」


 不意に、紙を擦る乾いた音が途切れた。ルートヴィヒはスケッチ帳を片手に持ち直し、満足げに目を細めて笑う。それはいつもの皮肉めいた薄笑いではなく、素直で、なんだか色気のある射抜くような笑い方だった。


「おれさ、エルイーゼのそういう顔好きだよ。大事に大事にお上品に育てられたお嬢様のくせにさ、平気で大騒ぎして顔いっぱいに笑うところ」


 エルイーゼはどう振る舞えばいいのか分からなくなってしまった。動かないでと言われたのに、胸の鼓動を抑えることすらままならない。赤くなった顔を隠すように少し俯き、絞り出すように問いかけた。


「……失礼な人ね。お上品に育てられただとか……そういうあなたは、どんなふうに育ったっていうの?」


 ルートヴィヒは意外そうに眉を上げる。それから再び手元に視線を落とし、繊細な手つきで紙の上に影を落とし込みながら、ぽつり、ぽつりと、自分の輪郭を語り始めた。


「おれは……まあ、エルイーゼとは真逆。家族はいたよ、きょうだいもいっぱい。でもさ、うちは貧乏だったから。働ける年になった順に背中叩かれて外に放り出されるわけ」


 指先で炭の粉を器用に伸ばし、絶妙な陰影を作り出していく。彼はまるで他人の身の上話でもするように続けた。


「だから言ってんだよ、子供扱いされてるうちに甘えとけって。誰かがエルイーゼのこと守らなきゃいけないと思ってくれてる時間は、実はめちゃくちゃ贅沢なんだよ」


「……ルートヴィヒ」


「ん?」


「ごめんなさい。さっき、バカにしないでなんて怒鳴っちゃって……。あなたがそんな風に思ってくれていたなんて知らずに」


「……いや、おれも悪かったよ。守るのと見くびるのは違うよな。さっきの態度は確かにちょっと酷かったわ」


 ルートヴィヒがこれほど素直に謝ることなど、出会ってから一度もなかったことだ。エルイーゼが驚きにその大きな瞳を何度も瞬かせていると、彼は「ほら、お詫びにこれ」と、描き上げたばかりのスケッチ帳を彼女の目の前へ突き出した。


「いい顔してるでしょ? 筆が乗ったのなんのって」


「……っ」


 紙の上に踊っていたのは、星空を背負い、夜風に髪をなびかせて笑うエルイーゼの姿だった。上品なまとめ髪は少し乱れ、夜会の虚飾は剥がれ落ち、高揚した頬と自由を知って輝く瞳。決して美化された完璧なお嬢様ではない──けれど埃っぽい酒場の空気と、甘い林檎ジュースの味を知った、一人の人間の生きた瞬間が、そこに力強く刻まれていた。


「……これ、わたし?」


「そう。見たままに描いた」


 ルートヴィヒはふっと口角を上げると、その榛色の眼差しで彼女の瞳を優しく見つめた。エルイーゼと視線を合わせるように、少しだけ目線を落として語りかける。


「扱いはさておき、絵描きとしての目にはちゃんと大人に見えてるよ。……少なくとも、檻の中から無理やり連れ出したくなるくらいの女の子にはね」


 確かな熱を込めてそう告げられ、エルイーゼはもう、返す言葉を何ひとつ見つけることができなかった。橋の上を吹き抜ける風はこれほど冷たいはずなのに、胸の奥から湧き上がる体温はどこまでも上がり続けるばかりで。彼女はただ描かれた自分の笑顔を、炭で汚れることも厭わず、震える指先でそっとなぞっていた。

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