第十四話
鏡の前でため息をつくことさえ、エルイーゼには日課になってしまった。今夜もまたコルセットを締め上げ、重たいシルクのイブニングドレスに身を包む。鏡に映る姿は確かに男爵家の娘として完璧な装いだが、その瞳には連晩続く夜会への底知れないうんざりが張り付いている。
嫌々ながら扇を手に取り、広間に続く大階段を降りようとしたその時。踊り場の影で、所在なげに立っている人影と目が合った。
「……ルートヴィヒ?」
「あ、エルイーゼ。今日もこれからどっか行くわけ? 舞踏会とか」
「そうだけれど。あなたこそ、こんなところで何をしているの? なんだか、最近いつもうちにいない?」
「好きで出歩いてるわけじゃないし。フェリックスに捕まったんだよ。今日も芸術好きが集まるとかいう……なんたら男爵のとこ連れて行かれるっぽい」
ルートヴィヒは節くれだった大きな手で窮屈そうに襟元を引っ張り、心底嫌そうに鼻を鳴らした。お互い逃げ場のない社交という名の義務に捕らわれた身。だが彼はふと、エルイーゼの今にも消え入りそうな気乗りしない様子に目を留めた。
「……。そんなに嫌なら、少し息抜きでもする?」
「えっ?」
「ちょっとくらい逃げれば? 夜のウィーンとか案内してあげよっか」
「そんなの、いいの? わたし、お目付役なしで出かけたことなんて一度もないわ」
「あー……。ま、別にいいでしょ。お目付け役ならおれがやってあげるし」
無論いいわけがない。年頃の娘が最も警戒すべきなのは、夜の街を熟知し、どこへ連れて行かれるかも分からない、ルートヴィヒのような素性の知れない男なのだ。彼を信頼してお目付け役に指名するなど、狼に羊の見張りを頼むようなものである。
しかし世間知らずなエルイーゼの胸は、コルセットの締め付けとは違う理由で踊るように跳ねた。磨かれた床と退屈な挨拶だけの広間ではなく、彼が見ている世界を見てみたい。
「……いいわ。夜会が終わったあと、日付が変わる頃に屋敷の裏口で。絶対に遅れないでよ!」
「お、元気出て良かったじゃん。じゃあエルイーゼも頑張って。あんまり愛想振りまきすぎて、変なやつに捕まるなよ」
その夜、エルイーゼはこれまでにないほど上機嫌で舞踏会を過ごした。退屈な紳士から「ナポレオン軍の釦を戦地でいくつ拾ったか」という通算五回目になる武勇伝を聞かされても、今日ばかりは全く気にならない。むしろ慈悲深い聖母のような微笑みを浮かべる余裕さえあった。
日付が変わる瞬間、エルイーゼは厚手のマントを深く被り、忍び足で屋敷の裏口へと向かう。重い扉をそっと押し開けると、そこには夜の冷気とともに一人の人影があった。
「……あ、ちゃんと来た。お疲れ、案外度胸あるね」
「来るに決まっているでしょう。絶対に遅れないでって言ったのはわたしだもの」
ルートヴィヒは、最近ずっと見ることがなかった、初めて会った時のような姿をしていた。フェリックスに着せられていた燕尾服も、きっちり固められた髪もない。シャツの襟元はくつろげられ、髪は風に吹かれるままに乱れている。
「その格好……。フェリックスがだらしないっていつも怒るでしょう?」
「いいよ。あんな窮屈なのもう脱ぎたかったし。もうどうでもいいじゃん。誰に見せるわけでもないもん」
彼は額にかかる髪をいかにも鬱陶しそうに払った。最近フェリックスに理髪師のところへ連れて行かれたらしく、以前よりは短くなっている。けれど真ん中で無造作に分けられた前髪の毛先は、整えられることを拒むように耳のあたりで跳ねていた。
エルイーゼはそのだらしなさがたまらなく好きだと思った。それは彼女が決して足を踏み入れることのできない、自由で、不確かで、それでいてひどく鮮やかな知らない世界の象徴のように見えたから。
「ほら行こ。あんまりぼーっとしてるとうるさいのが出てきちゃうよ」
「どこへ連れて行ってくれるの?」
「んー……。まだ決めてないけど。お嬢様が一生見ることのない、ほんとのウィーンってやつ?」
月明かりの下で立つ彼は、そのまま夜風にほどけて消えてしまいそうだった。もし今この手を伸ばして触れてしまったら、その指の間からさらさらと砂のように逃げていってしまうのではないか。あるいは一緒に、戻れないどこかへ連れ去られてしまうのではないか。そんな不安と、それを上回るほどの高揚感。
「いいわ。どこへでも連れて行って!」
二人は夜の闇に紛れ、市街の整然とした街並みを抜け出した。辿り着いたのは、インネレ・シュタットとレオポルトシュタットをつなぐドナウ運河の橋の上だ。馬車の轍の音さえ聞こえない静寂を破ったのは、濁った怒鳴り声だった。
「離せッ! おれはもうおしまいだ、この川の底で魚と踊るんだよ!」
「よせって、ハンス! お前が死んだら誰がこのツケを払うんだ!」
欄干に身を乗り出し、今にも運河に飛び込もうとする男。それを数人がかりで羽交締めにして引きずり戻している。エルイーゼは「きゃっ」と声を上げ、ルートヴィヒの背中に隠れた。
「……あ、あれ! 大変だわ、助けないと……!」
「別に気にしなくていいよ。あの人、週に三回はあそこで魚と踊ろうとしてるから。まあ一種の趣味? みたいなもんじゃん」
ルートヴィヒは欠伸を噛み殺しながら、震えるエルイーゼの手を引いてさっさと橋を渡りきった。やがて路地の奥から、どこか外れたバイオリンの音色が響いてくる。
たどり着いたのは、窓が煤け看板も傾いた一軒の大衆酒場だった。扉を開けた瞬間、酒の匂いと煙草の煙、そして荒っぽい笑い声がエルイーゼを包み込む。
「おい、見ろよ。死んだと思ってたルートヴィヒがお出ましだ」
「なんだ、貴族の屋敷に監禁されて飼い殺しにでもなったかと思ってたわ」
次々と飛んでくる野次に、ルートヴィヒは鼻で笑って応える。彼は背中に隠れて固まっているエルイーゼを、店の隅の使い込まれたテーブルへと肩を押して連れて行った。
「お知り合いがいっぱいいるのね。あなた、本当はいつもどこにいるのよ」
「どこってその辺だよ。おれが貴族の屋敷にいる方がおかしいでしょ」
ガタつく椅子に改めて向かい合わせに座ると、ルートヴィヒは「やっぱ目立つか」と他人事のように思う。エルイーゼの一筋の乱れもなく結い上げられた髪や、大切に育まれたことが一目でわかる傷ひとつない肌は、この場にあっては異様なほどに清廉だった。
しかし彼は「まあ別にいっか」とすぐに考えるのをやめて、そのまま通りがかった店員にぶっきらぼうに声をかけた。
「この子に一番いい林檎ジュース持ってきて。酒はダメ。まだ早すぎ」
「ちょっと待ってよ、わたしもう子どもじゃ──」
エルイーゼの抗議など聞こえないふりをして、彼は自分の分には強い酒を注文した。運ばれてきたグラスを不満げに見つめる彼女を他所に、ルートヴィヒは馴染みの男たちと軽口を叩き始める。ふん、とそっぽを向いたエルイーゼの隣に、酒の匂いをさせた見知らぬ男が滑り込んだ。
「拝みたくなるような綺麗な顔だ。お嬢ちゃん、そんな甘っちょろいジュースじゃなくて、俺とこっちで乾杯しようぜ」
「えっ、あの……離して!」
男が不躾に手を伸ばした瞬間、横からルートヴィヒの気怠げな声が飛ぶ。
「おお、何してんの。その子はダメだよ、ペーター。おれ、その子のお目付け役だから。ちゃんと家に帰してやんないと」
「ケチくせえこと言うなよ、ルートヴィヒ……」
男がなおも食い下がろうとしたその時、背後からがっしりとした手があらわれ、酔っ払いの肩を掴んで引き離した。
「よせ、ぺーター。いい加減にしろ。……大丈夫かい、お嬢さん」
毅然とした態度で割り込んできたのは、落ち着いた風貌の壮年の男性だった。その迫力に押されたのか、酔っ払いの男はぶつぶつと文句を言いながら人混みの奥へと消えていく。
「……あ、ケルナー。助かった」
「助かったじゃないだろう。お目付役を自称するならちゃんと見ていてやれ」
「まあそうなんだけど。ちょっと目を離した隙に寄ってくるんだもん。虫みたいにさ」
相変わらず身も蓋もない言い方をするルートヴィヒを横目に、エルイーゼは慌てて深々と頭を下げた。
「あの、どうもありがとう。助けていただいて……」
「いや、いいんだよ。ちょうど家で待っている娘と同じくらいの年格好だったからね。あんな不埒な手合いに絡まれているのを見ちゃ、放っておけないさ」
ケルナーが穏やかに目を細めると、ルートヴィヒが横からニヤニヤしながら口を挟んだ。
「感心でしょ、エルイーゼ。でもこの人さあ、ずっと売れない絵描きやってんの。奥さんと娘に毎日死ぬほど怒られてんのに」
「はは……違いない。耳が痛いよ。だが描きたいものがあるうちは、筆を置くわけにはいかなくてね」
「……いえ、素敵だわ! 好きなことを続けて、ご自分の望むままに生きていらっしゃるなんて」
エルイーゼが真剣な眼差しで告げると、ケルナーは驚いて目を見開き、それから今日一番の優しい笑顔を浮かべた。
けれどルートヴィヒが「最近何描いてんの」と茶化しながら「こんなとこいないで早く帰れよ」と促したので、それ以上話すこともできず、彼は「その通りだな」とカウンターに数枚の硬貨を置いて去ってしまう。
嵐が去ったような静けさの中、ルートヴィヒがエルイーゼの隣に座り直し、わざとらしくその肩に腕を回した。
「さてと、お目付役の仕事をしないと。……あ、おかわり飲む? 林檎ジュース」
「……もう! だから、子供扱いはやめてって言っているじゃない!」
エルイーゼがその腕を振り払おうとすると、ルートヴィヒは「えー?」と不満げな声を漏らした。しかし彼はすぐにふっと表情を消し、少しだけ考え込むような間を置いてからグラスを弄びながら言った。
「……でもさあ。周りが誰も子供扱いしてくれなかったら、エルイーゼ、たぶん今までに一回くらいはわりと取り返しつかない目に遭ってると思うよ」
「……え? なによ、それ」
「あ、これ真面目な話ね。優しくない人なんていくらでもいるし。だからさ、今は子供扱いに甘えてなよ。その方が安全じゃん」
エルイーゼは猛烈に腹が立った。いつもいい加減で不作法なくせに、急に兄のような顔をして諭してくるなんて。
「……バカにしないでよ!」
勢いよく林檎ジュースを飲み干すと、彼女はそのまま机に突っ伏した。コルセットの窮屈さも、夜会の虚飾も、ルートヴィヒの生意気な口ぶりも、全部が混ざり合って胸が苦しい。
「……ぐすっ、……ひっ。みんな勝手なんだから……。都合のいい時だけもう立派な淑女だなんて言って、そのくせ、わたしの意見は子供なんだからって聞き流すのよ!」
「え、ちょっと待って。そこまでの話だった?」
エルイーゼの肩が震え出し、欠伸を噛み殺していたはずのルートヴィヒが今度は目を丸くした。周囲の酔っ払いたちは「あーあ、泣かせた」とここぞとばかりに面白がって囃し立てる。ルートヴィヒは「うっせ、お前らには関係ねえだろ」と中指を立てて応戦したが、目の前でメソメソしているお嬢様をどうにかするのが先決だった。
「エルイーゼ、分かったからさ、泣かないでよ……。おれがいじめてるみたいじゃん……」
「わたしは、あなたたちが思うほど子供じゃないの。でも、だからって気軽にダンスに誘ったりしないで。知らない人に不躾に言い寄られたくもないの!」
「注文多いな……」
「大人扱いしてほしいけど、変な人は追い払ってほしいの。当たり前じゃない!」
エルイーゼは涙を溜めた瞳でこれ以上ないほど堂々と宣言した。ルートヴィヒは「都合良すぎだろ」と喉元まで出かかったが、一応大人なのでぐっと飲み込んだ。ここで正論を言えば、さらに事態が悪化するのは目に見えている。彼は最後の一杯を煽ると、ようやく観念したように椅子を引いて立ち上がった。
「ほら、泣くなら外行くよ。こんなとこで泣いてたら、余計めんどくさいの寄ってくるから」
「……ううっ、……ぐすっ」
「立てる? 手貸してやるからさ」
エルイーゼは不満そうに鼻をすすりながらも、その手をギュッと、まるで離してはいけない命綱のように掴み返す。
「……いいわ。わたしは大人だから、あなたのわがまま聞いてあげる」
「おれが聞いてやってんだよね」
ルートヴィヒは握りしめられた手の強さに少しだけ苦笑しながら、店員に硬貨を放り投げて、夜風の待つ表へと彼女を連れ出した。酒場の喧騒を背に受けて歩き出す二人の影は、まだ少しだけ、ちぐはぐな高低差を描いていた。




