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第十三話

 白いたてがみが風に踊る競馬場のパドックの隅で、ルートヴィヒは不機嫌そうにスケッチブックを抱えて立っていた。その隣には、今日も今日とて着飾って連れ出されたエルイーゼが、日傘を握りしめて溜息をついている。


「……で、おれの気持ち、ちょっとはわかった? 全然乗り気じゃないのにさ、肩凝るような重たい服着せられて、知らない怖い人たちにいっぱい挨拶させられてんの。普通に嫌でしょ」


 ルートヴィヒが吐き捨てるように言った。最近の彼は、フェリックスにその才能を発掘されて以来、リーベンフェルス男爵家お抱えの天才画家として、あちこちの社交場へ連れ回されている。


「……ええ、痛いほどわかったわ。あなたこそ、わたしの気持ちがわかる? 逃げ場のない馬車の中でお兄様たちに挟まれて、あーだこーだと勝手に未来を決められるあの絶望を!」


「わかったわかった。エルイーゼの兄貴たち、どいつもこいつも人の話を一文字も聞かないもんな。今日もさ、ここで似顔絵描いて才能を知らしめよう……とか言われてるし」


 二人は顔を見合わせ、重い溜息を同時についた。境遇は違えど旋風に巻き込まれた被害者同士、妙な連帯感が生まれている。そこへ、上機嫌なフェリックスが空気を読まずにひょいと顔を出した。


「ルートヴィヒ、そろそろ始めようか。君の似顔絵を欲しがっているご令嬢たちがあそこに列を作っているよ。ところで、いつも街角ではいくらで描いていたんだい?」


「二十クロイツァーだけど」


「冗談だろう、安すぎるよ! 二……いや、三グルデンでいこう。それが適正価格だ」


「九倍じゃん。それぼったくりだろ」


「今日の客はみんな貴族だからいいんだよ。彼らにとっては三グルデンなんてポケットの塵みたいなものさ。さあ、その神の如き筆致を披露して来よう!」


 半ば強制的に、群がる淑女たちの中心へと連行されていくルートヴィヒ。彼が香水と宝石の海に飲み込まれ、愛想笑いで注文をさばく様子を、一人残されたエルイーゼは遠巻きにぼんやりと眺めていた。だが、そんな平穏も長くは続かない。


「リーベンフェルス嬢、お一人ですか? もしよろしければ、あちらの特別席で一緒にレースを観戦しませんか? あの三番の馬は、我が家が出資している精鋭でして」


「……ごきげんよう。確かに立派なお馬ですわね。あの筋肉の盛り上がり方が、なんだかよく焼けたパンみたいでとっても美味し……いえ、力強そうですわ。でもあいにくわたしは……」


「いいえ、僕の隣こそが特等席ですよ。勝ち馬を当てる自信がある。もし予想が当たったら、次の舞踏会で最初のワルツを予約させていただけませんか?」


 断る隙も与えず、別の令息が割り込んでくる。エルイーゼは助けを求めて、盾になってくれるはずの厳しい兄の姿を必死に探した。

 しかし視線の先では、ヴィルフリートが令嬢とその母親たちに文字通り包囲されていた。次期男爵夫人の座を狙う熾烈な戦いの中に兄は埋もれている。そして母もまた、家柄の釣り合う令嬢を見定めるのに忙しく、末娘の窮地には全く気づいていない。


 令息たちはあの手この手で誘い文句を投げかけてくる。「望遠鏡を貸しましょう」「あの馬の血統がいかに素晴らしいか」……。しかし彼らの熱心な言葉が耳に入るほど、エルイーゼの心は冷めていった。

 彼らの瞳に映っているのは男爵令嬢という肩書きか、持参金の額か、あるいはあの美しいマリアの妹という記号。誰一人として、さっきから砂埃で喉がカラカラで、馬を見てレバーケーゼの味を思い出しているエルイーゼ自身の話なんて、これっぽっちも聞いてはくれないのだ。


「やはりマリア様の妹君ともなれば、こうして立っているだけで絵になりますな。お姉様が伯爵家に嫁がれた今、貴女こそが社交界の至宝だ」


 そしてついに、ある男が放った一言がエルイーゼの堪忍袋の緒を跳ね飛ばした。片手で勢いよく扇を閉じ、その鋭い音に周囲の男たちが一瞬沈黙する。


「……あら、よく見ればあなた。お姉様に会うためにいつも屋敷の前に馬車を停めていた方ではありませんこと? 毎日毎日、すぐに追い返されていた……」


「えっ、いえ、それは……」


「お姉様が駄目だったからって、次はわたしで妥協しようなんてそうはいかないわ! わたしの目は誤魔化せなくてよ!」


 エルイーゼの剣幕に令息たちはたじろぎ、蜘蛛の子を散らすように去っていく。戦いに勝利したエルイーゼは砂埃を避けるように日傘を深く差し直した。遠くではルートヴィヒが令嬢から「もっとお目々を大きく!」と詰め寄られ「……まあ、描くけど。別に見えた通りにしか……」と、やる気のない声を漏らしている。

 馬券売りの景気のいい声が響く競馬場。賑やかさの中でエルイーゼは孤独だった。せめてあの、三グルデンのぼったくり似顔絵描きの皮肉でも聞ければ少しはマシだったのに。


 第一レースが始まる頃、ようやくフェリックスに連れられてルートヴィヒが戻ってきた。フェリックスは「今日は五番だ、あの健脚は芸術だね!」と出馬表に夢中になっている。残された二人は、揃って魂が抜けたような顔で隣り合った。


「なんかもう腕が動かないんだけど。どんだけ描けばいいわけ?」


「わたし、さっきお姉様の代わりに口説かれそうになったのよ。あり得ないわ」


 エルイーゼがさっきの失礼な令息たちの話を愚痴混じりにぶちまけると、ルートヴィヒは手元に残った銀貨を転がしながら、気の抜けた返事をした。


「あー、あれね。ちゃんと相手しすぎなんだよ。あいつら、ちょっとでもいけそうだと思うと調子に乗ってずっと来るよ。遠くの空とか、あの馬の尻尾とかじーっと見てなよ。話しかけられても魂抜けたみたいな顔すれば、別に誰も誘ってこないでしょ」


「……そんなの、分かっているわ。でもあの方たちは、わたしじゃなくて肩書きや持参金を見て寄ってくるんだもの。無視したって、家柄という餌がある限り追いかけてくるわ」


「家柄ねえ。だったらさ、なんか……扱いにくいと思わせればいいじゃん。わざわざお行儀よくしてやる必要ないって。思い通りになる人形が欲しいだけなんだから、猫なんて被らなきゃいいんだよ」


 ルートヴィヒの身も蓋もない助言に、エルイーゼは絶句した。


「なんてひどい処世術かしら! それに、わたしが普段から扱いにくいみたいな言い方はやめてよ」


「えー……。自覚なかったの?」


「どこが!? どんなふうに!? はっきり言ってみせてよ!」


「そういうとこだけど。……とにかくさ、エルイーゼのその変なとこがバレればみんな勝手に諦めるって。失礼なやつには失礼で返せばいいじゃん。おれも似顔絵に文句言うやつには『これ十年後のお前の顔だから』って言ってるし」


「とんでもない無作法だわ。呪いの言葉か詐欺じゃない!」


 憤慨する彼女の視界に、また新たな影が差し込んだ。今度は一人の令息が、背筋の伸びた落ち着いた足取りで近づいてくる。ルートヴィヒがすかさず彼女の背後に回り、「ほら来たじゃん。行け行け」と悪魔の囁きのように急かした。


「リーベンフェルス嬢、お初にお目にかかります。もしよろしければ、この後のレースの展望について、お話を聞かせていただけませんか?」


 声をかけてきたのは、艶やかな黒髪を整え、穏やかな眼差しを湛えた貴公子だった。そのあまりに非の打ちどころのない端正な姿に圧倒されそうになりながらも、エルイーゼは意を決した。淑女の仮面を脱ぎ捨て、精一杯の棘を言葉に込める。


「……あら。失礼ですが、あなたもお姉様に会うために、うちの門前に通っていらした方かしら? あいにくですけれど、わたしは姉で果たせなかった野望の妥協案ではありませんの。代わりを探していらっしゃるなら、他を当たってくださる?」


 よし、言ったわ! これでこの人も、怒るか呆れて去っていくはず──。


 ところがその令息は怒り出すどころか、一瞬きょとんとした後、こらえきれないといった風に声を上げて笑い出した。


「……っ、はは、失礼。だめだ、ちょっと待ってください。……面白い方だ。そう来るとは思わなかった」


「……え?」


「……いえ、僕はこうした場への出入りを許されたばかりの身でして。ご令姉様のことは噂でしか存じ上げないのです。僕はただ、先ほどから必死に羽虫を追い払うような顔をされていた貴女に興味を惹かれただけです」


 エルイーゼが呆然とする中、青年は柔らかな笑みを深めた。


「ですから、僕が今お話ししたいのは他でもない貴女自身ですよ。リーベンフェルス嬢、ここは砂埃がひどくて喉が渇きませんか。冷たいレモネードを取って参りますから、ご一緒していただけませんか?」


 あまりにも真っ直ぐな誘い。これまでの令息たちとは決定的に違う反応に、エルイーゼは顔を赤くして固まってしまった。その様子に手応えを感じたのか、彼は「すぐに戻ります」と爽やかに人混みの向こうへ消えていく。


 その背中が見えなくなるやいなや、エルイーゼはスケッチブックを抱えて呆然としているルートヴィヒの胸元に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。


「どうしてくれるのよ、悪い方に上手くいっちゃったじゃない!」


「ごめんごめん。いやほんとごめん。あんな普通にいいやつが混じってるなんて思わないじゃん」


「全然謝ってるように聞こえないわ。完全に逆効果……誰よ、扱いにくいと思わせればいいなんて言ったのは!」


「……まあ、諦めてレモネード飲めば? どう見たって脈ありだし。てか、あんな直球に来られて真っ赤になるとか、結構可愛い反応すんだね」


「……うるさい! いつもうるさいけれど、今日は特にうるさいわ。面白がるのはやめてよ!」


「はいはい。ほら、もう戻ってきたよ」


 エルイーゼは咄嗟の判断で、引きつりそうな頬の筋肉を総動員した。一秒前までルートヴィヒを呪っていた表情を、瞬時に深窓の令嬢の微笑みへと塗り替える。


「お待たせいたしました、一番冷えているものを選んできましたよ」


「……まあ、恐れ入りますわ。ご親切にありがとうございます」


 受け取ったグラスの冷たさが、火照った指先に心地よい。背後でルートヴィヒが「……お幸せにー」と、蚊の鳴くような声で余計な一言を飛ばしたのを、エルイーゼは足でわずかに砂を跳ね上げることで黙らせた。

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