第十二話
「おーい、エルイーゼ! 準備できたー? 馬が玄関先で退屈して欠伸してるよ。今夜の主役が遅刻なんて、社交界の七不思議に数えられちゃうじゃないか」
「フェリックス、黙って待てないのか。淑女の身支度を急かすなど無作法にも程があるぞ」
「二人ともやめてちょうだい。でも、もう出発まで余裕がないわ……。エルイーゼ、準備はできたの?」
廊下では兄たちがいつものように火花を散らし、母親の焦りを含んだ溜息も聞こえてきた。一方、部屋の中のエルイーゼは、鏡に映る自分の姿を見つめたまま、落ち着かずに指先を遊ばせていた。
「……あ、足が震えるわ! どうしよう、舞踏会で一歩も歩けなかったら……!」
真珠のような艶のあるシルクに、ルートヴィヒとマリアがこだわった金の刺繍のドレス。鏡に映る姿にときめきで胸がいっぱいになるはずなのに、それ以上にジュエリーの重みとデビュタントの重圧が彼女を押し潰そうとしていた。
「重い、重すぎるわ! これ、中に鉄の塊でも仕込んでいるんじゃないかしら」
「お嬢様、それが宝石の重みというものですわ。さあ、完璧でございますよ」
アンナが満足げに手を止めた。彼女は並んでいたメイドたちを振り返り、きびきびとした口調で指揮を執る。
「皆、道具を片付けて下がりなさい。もう限界よ、急ぎなさい!」
忙しなく動いていたメイドたちが一斉に一礼し、嵐が過ぎ去るように退出していく。あんなに賑やかだった準備の喧騒が消え、エルイーゼは逃げ場がなくなったことを悟った。
「扉の向こうで皆様がお待ちですわ。……お兄様方の忍耐も限界のようです」
アンナに促され、エルイーゼは躊躇いながらようやく廊下へ踏み出した。扉が開いた瞬間、待ち構えていた母親とフェリックスの賞賛の嵐が吹き荒れる。
「まあエルイーゼ。なんて愛らしいのかしら。まるで妖精のようだわ!」
「今夜のウィーンは君の独壇場だね、僕の鼻も高いよ!」
「ああもう、いいから! 聞きたくないわ!」
気恥ずかしいのか、それとも緊張が限界を越えたのか、エルイーゼは耳まで真っ赤にして叫ぶと重たいドレスの裾を両手で掴んだ。そして令嬢にあるまじき急ぎ足で階段を駆け下りていく。背後で「淑女の作法を忘れるなと言っただろう!」とヴィルフリートの声が飛ぶが、もう知ったことではない。
馬車に押し込められてからも、彼女のパニックは止まらなかった。
「……暑い! ねえ、もう十一月なのにどうしてこんなに暑いの!? 誰かこのドレスに氷でも仕込んでちょうだい!」
「……窓を開ければいいだろう。少しは頭を冷やしなさい」
ヴィルフリートが呆れ顔で窓を細く開ける。すると今度は──。
「……寒い! 凍死させる気!? 鼻が赤くなったらどうしてくれるのよ、お兄様の意地悪!」
「閉めろということか開けろということか、どちらかにしろ!」
そんな妹の様子を面白そうに眺めていたフェリックスが、ふと窓の外を見ながら呟く。
「ルートヴィヒにも見せてあげたかったね。あいつ、自分の助言がこんな風に形になったのを見たらなんて言うかな」
「……決まっているわよ! 『うわ、今日すごいじゃん。なんかめっちゃ偉そうに見えるんだけど』とか、『ほんとにお嬢様じゃん。近づいたら怒られそう』とか、絶対そういうことしか言わないんだから!」
エルイーゼは拳を握りしめ、想像上のルートヴィヒに向かって毒づいた。その剣幕にフェリックスは吹き出し、ヴィルフリートは眉間を押さえた。今夜の舞台は伝統ある侯爵家の舞踏会。社交シーズンの幕開けを飾るこの夜は、今年デビューする令嬢たちにとっての晴れ舞台であり──エルイーゼに言わせれば、磨き上げられた商品たちが一堂に会する残酷な品定め会場だった。
馬車が止まり、御者が扉を開ける。ヴィルフリートの差し出した手を取り、背筋を凍らせるような緊張をシルクの裾に隠して、彼女はついに大広間へと足を踏み入れた。
重厚な扉が開かれた瞬間、オーケストラの調べと共に、熱気と香水の匂いが押し寄せてくる。手袋をはめた腕にダンスカードを提げて広間へ足を踏み入れると、さざ波のように視線が集まった。
「……見て、リーベンフェルス家の……」
「あの方がマリア様の妹君?」
無理もないことだった。姉のマリアはウィーン社交界に咲き誇る大輪の薔薇だ。デビュー以来、その美貌と才気で数多の貴族たちを虜にし、名だたる令息たちの求婚を片端から袖にしてきた彼女の妹が、ついに結婚市場へ現れたのだ。
好奇と期待、そして一筋縄ではいかない嫉妬の混じった視線がエルイーゼの全身を舐めるように動く。しかし注目の的となっている当の本人はといえば、扇を広げては閉じ、閉じてはまた広げ、落ち着きなく視線を泳がせ、ちっとも社交界の薔薇らしくはなかった。
「……あのあどけない仕草。なんて可愛らしいのかしら」
「リヒテンベルク夫人の凛とした美しさとは対照的ね。守ってさしあげたくなるような、小鳥のような愛くるしさだわ」
周囲の貴婦人たちが勘違いも甚だしい賞賛の溜息を漏らす。エルイーゼが酸欠で口を小さく動かしているのを「籠から出たばかりの小鳥のよう」と受け取るのだから社交界とは恐ろしいものだ。格調高い衣裳が、落ち着きのない挙動をすべて若々しい瑞々しさという美徳に書き換えてしまっていた。
リーベンフェルス男爵家の輝かしい家柄、そして泣く子も黙るリヒテンベルク伯爵家の親戚筋。この強力な後ろ盾、そして画家の魔法がかかった衣裳を纏ったエルイーゼに、独身令息たちが群がらないはずがなかった。
「リーベンフェルス男爵夫人、ぜひご令嬢をご紹介いただけませんか」
「やあフェリックス。君の妹君は噂以上の逸材じゃないか。一曲、手合わせ願いたいものだね」
母親は優雅な微笑みで応対し、フェリックスは「おっと、僕の許可だけじゃ足りないよ」と軽口を叩いている。一方で、エルイーゼの手を引くヴィルフリートの周囲だけは、冬の荒野のような冷気が漂っていた。
彼の鉄壁の堅物ぶりと厳しい選定眼はあまりに有名で、直接挑もうとする無謀な男は一人もいない。その代わりヴィルフリートは妹の腕をがっちりと固めたまま、表情一つ変えずに、腹話術のような器用さで毒を吐き始めた。
「……左前方から来たあの男を見ろ。あれはシュタイン男爵の次男だ。家柄はいいが、去年の夜会で三人の令嬢に同じ詩を贈ったという噂がある。却下だ。向こうのケスラー伯爵は賭博で領地を半分失いかけている。話しかけられても会釈だけで済ませろ」
「……お兄様、そんなこと言われても覚えられないわ。みんな同じ顔に見えるんだもの。あ、あの右側の、優しそうな金髪の方は?」
「あれはハルトブルク伯。顔はいいが趣味は珍しい蜘蛛の蒐集だ。お前を蜘蛛の巣だらけの屋敷に閉じ込める気か? 却下。……次だ。三時の方角、あの派手な上着の男は──」
「……もういい! 誰が来ても却下じゃない。これじゃダンスカードが真っ白のまま終わっちゃうわ」
「それでいい。得体の知れぬ者に身を投じるよりは、真っ白なカードの方がよほど高潔だ。……ほら笑え。公爵夫人がこちらを見ている。口角をあと二ミリ上げろ。……そうだ、その食べられなかったクラプフェンを想う悲劇の乙女のような顔を維持しろ」
「……そんな顔、してないわよ!」
周囲からは、厳格な兄に守られながら慎ましやかに耳を傾ける妹の図に見えているだろう。だがその実態は、品定めという名の地獄の検閲と、それに対する絶叫寸前の抗議の応酬だった。
「……あ、シュテファニー! 救世主を見つけたわ!」
人混みの隙間に見慣れた友人の姿を見つけ、エルイーゼは救いの船を見つけた難破船の乗客のような顔になる。
「待てエルイーゼ、どこへ行く。まだ話は終わって──」
「お兄様、あちらにシュテファニーが。あら、扇の骨が折れて困っているようよ。緊急事態だわ、失礼!」
「……見え透いた嘘を!」
食い下がる兄の腕を驚くほどの手際ですり抜ける。それは日頃のダンスの稽古よりもずっと俊敏な動きだった。エルイーゼはドレスの裾を器用に捌き、挨拶を交わそうと近づいてくる若き紳士たちの隙間を、まるで小川の岩を避ける魚のようにすり抜けていった。
「あら、ごめんなさい。……ええ、また後ほど!」
息を切らしてシュテファニーの手を掴むと、二人は示し合わせたように裏手のバルコニーへと滑り込んだ。重厚なカーテンの裏で広間の喧騒と熱気が嘘のように遠のき、冷ややかな夜風が火照った頬を撫でる。
「……ああ、もう。息が止まるかと思ったんだから! シュテファニー、よくぞあそこにいてくれたわね」
エルイーゼは手すりに体重を預け、着飾った姿が台無しになりそうなほど深い溜息を吐いた。隣ではシュテファニーも同じように、宝石を散りばめた胸元を押さえて肩を落としている。
「本当に……。舞踏会なんてものは、こうして外から眺めている方がよほど面白かったわね」
「まったくよ! 自分の番になった途端あんなに息苦しい場所になるなんて。まさかこれがこれから毎晩のように続くの?」
「恐ろしいことにそのようね。あちらの公爵夫人なんて、もう四十年も通い詰めているという噂よ」
「四十年? 気が遠くなりそう。想像しただけで、おやつのカナッペが胃の中で暴れ出したわ」
二人が「毎晩この地獄は無理よね」とクスクス笑い合っていた、その時。
「……おや、こんなところで美しい二輪の薔薇が咲いているとは。お二人とも、月夜の散歩のお相手が必要ではありませんか?」
カーテンの隙間から、いかにも「自信満々です」という顔をした若者が笑みを浮かべて現れた。二人は一瞬、無言で顔を見合わせる。そして示し合わせたように、これ以上ないほど行儀の悪い、しかし魂の底からの拒絶を込めた「いーっ!」という顔をしてみせた。
「残念ですがわたしたちは今、深刻なお世辞アレルギーについての議論をしておりますの!」
「そう、猛毒の蜘蛛の調査についても話していたところよ。さあエルイーゼ、あちらの階段へ!」
「えっ、ちょ、待っ──」
呆然とする若者を置き去りに、二人の令嬢はドレスの裾を大きく翻し、バルコニーの反対側へと脱兎のごとく駆け出した。その背中にはもう、淑女の姿は欠片も残っていなかった。




