2–8 衝動
ジルに連れられたレーリアは謁見の間から自分の部屋へと移った。
窓から夕日を浴びた部屋はオレンジ色に染まっていて温かみを帯びている。
キングベッドの柔らかな感触を背中に感じながらも彼の腕が離れてゆくのを眺めていたら、汗で額に張り付いた赤髪を、その綺麗な手がそっと払う。
一緒に帰ってきたララの「お薬作りますから!」と慌てた声と静かに扉が閉まる音が聞こえ、彼女の気配は遠ざかっていった。
ずっと体調不良の自覚がレーリアにはなかったが、ジルが即座にベッドへ運んでくれたから、やっと理解が追いついた。自分は休まなければいけないんだと。
(熱を出すなんていつ以来かしら。また面倒をかけてしまったわ…)
謝ろうとしたレーリアだったが、その前にジルが先手を打った。
「面倒だなんて思っていません」と告げた後ベッドサイドに椅子を出現させ、腰を下ろす。
「人間と魔族では体の丈夫さに天と地ほど違いがあるのです。魔族は魔力不足でも無い限り体調不良にはなりませんが人間ではそうもいかない。種族の違いにより起きたことなのですからレーリアが謝る必要などないのですよ」
温度の低い手のひらが殊更優しくレーリアの頬を撫でる。
こうやって彼が優しく接してくれる度に、どうしてこんな私にそこまで…という思いが膨らむ。つくづく自分の弱さが恨めしく感じた。
だけど魔族と人間には圧倒的な差が確かに存在している。
人間は200歳も生きられないし、高度な魔法も使えない。魔族と比べれば、ちょっとしたことで体の調子を崩す。
それらは努力をしても埋めようのない種としての違いだ。
ここにいたいのなら受け入れるしかないのだ。
「私のこと、そんなに気にしないでほしいわ。さっきも言ったけど何もかも頼り切りにはしたくないもの」
「……貴方を気にしないでいろだなんて…酷なことをおっしゃる。体調不良に気づけなかった私では頼りになりませんか?」
悲しげに眉を下げ、捨てられた子犬のようなウルウルとした瞳で訴えてくるジル。
真剣なのは伝わってくるが、そういう目で見つめられると妙な罪悪感を感じてしまう。
(なぜかしら、頼らないのが悪いことのように思えてきたわ)
「ジルを拒絶しているわけではないのよ。これ以上負担になりたくないだけで」
「むしろ大歓迎なのですが。もっと私に甘えてください」
「甘える…?」
(どうやって…?)
長年、虐げられてきたレーリアには、どうすればジルが満足するような甘え方になるのか検討もつかない。どんなに考えようとしても頭の中は真っ白のままだった。
そんなレーリアを見かねたジルがあやすようにフワフワと彼女の頭を撫でる。
「私にしてほしいことや、レーリアがしたいことはありますか?知識を深める以外で。時期は問いませんし、いくつあっても構いませんよ」
「してほしいこと…したいこと…」
充分良くしてくれているのに、これ以上、何かを要求するだなんて本当にいいのだろうか。
けれど『してほしいこと、したいこと』と言われれば一つだけ思い浮ぶ。
躊躇いながらもレーリアは恐る恐る、それを言葉に乗せた。
「……今から…屋敷の皆と一緒に…ジルへ…お帰りなさい、が言いたいの。叶えて…もらえるかしら…」
ジルが帰ってくるときまで取っておいてくれた大切な挨拶。『花嫁』の言葉で連想した行動にすぎないがしたいと思う。なぜそう思うのか分からないけれど自然と込み上げてきたのだ。
(休まなければいけないのに我儘かしら)
レーリアは、黙ったままでいるジルの反応を待った。
彼は何かに耐えるように、ずれていない眼鏡を指で抑えつけ、神妙な顔をする。
嬉しいときはちゃんと笑ってくれる人だから。きっとダメなお願いだったのだ。
慌てて上体を起こしたレーリアは、すかさず頭を下げた。
「ごめ…」
「そんなに愛らしいこと、言わないでください」
「……え」
ギラついた妖しい赤黒い瞳がレーリアを凝視する。
獰猛な本能が、ただただ一心に彼女へ注がれた。
獲物として認識され、食べられてしまいそうな感覚にレーリアも本能で肌が粟立つ。
温かみを感じた部屋のオレンジが、恐ろしい赤になったような錯覚に陥った。
しかし怖いと感じたのは、その一瞬だけ。今はジルの猛毒の花嫁として動く時だ。
レーリアはドレスの背中にあるファスナーを降ろした。
噛みやすいように鎖骨まで晒そうとしたら、力強く両手首を掴まれ、止められる。
ジルは彼女の手首を放したあと完璧な笑みを作った。瞳に宿る凶暴な欲望を無視して。
「お嬢さんに出迎えてもらえるなんて光栄です。そろそろララが戻ってくると思いますので薬を飲んだ後に準備をいたしましょう」
矢継ぎ早に話して立ち上がり、離れてゆくジルの背中に、レーリアは「待って」と紺色のジャケットを掴み、引き止める。
彼はこちらを向いてくれたが、元の近さまで戻ることはしなかった。
「お嬢さん、もし体が辛いのでしたら出迎えは別の機会にいたしますが」
「平気よ。そんなことよりも…」
赤黒い瞳から伝わってくるその欲は決して軽いものではない。今にも喰らいつきそうな危うさがあるというのに。
「食べないの?」
「ええ」
「なんで?私は貴方の猛毒の花嫁なのよね?だったら…」
続く言葉をレーリアが紡ぐ前にジルは首を横に振る。それ以上は言ってはいけないと。
「体調の悪いお嬢さんの血をいただくわけにはまいりません。流石に、それくらいの分別はあります。いくら倫理観が軒並み狂っている魔族といえど、ね」
理性的で思いやりのある回答だ。ジルらしいとも思う。
レーリアをスティンツ島に連れ出した時、すぐに吸血せず待っていたのも、ノールベルツ公爵家に虐げられ、心身ともに彼女が弱っていたからではないかと今なら想像できた。いつも甘やかそうとする彼ならきっと間違った解釈ではないだろう。
それでもレーリアは納得できない。ジルは何も間違っていないのに。
(あの時とは違うもの。私には食べることの大切さを教えておいて、そんなのって…)
たくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん寝る。それは彼がレーリアに願ったこと。
だけど肝心の本人がそれをできない状況になっている。ジルが自分を想って吸血を我慢する。そんなの嫌だった。
レーリアは今にも部屋から出ていきそうな彼に抱きついた。唇を強く噛んで傷つけ、「食べて…」と、か細い声で囁く。
咄嗟の行動はあの童話「吸血鬼の物語」の最後とよく似ていた。しかし、その心は対照的だ。
お姫様は吸血鬼を想って血を捧げたのに対し、レーリアのはただの我儘だ。正しいことをしようとするジルを止めるなど、なんて酷い人間なのだろう。
ジルはギラギラとした赤黒い瞳で、レーリアの唇を見つめる。血が流れる唇を。
眉間に皺を寄せて苦しそうな表情で彼女を勢いよくベッドへ押し倒した。
闇色と共に2本の角と鋭い牙が現れ、ジル・フィンセントの本性が顕になった。
「貴方には敵いません…そうやってお願いされたら抗えないと分かっていたからこそ離れようとしたというのに。私の理性を壊す真似を容易くならさないでください」
「これも私がしたいことの一つよ。叶えてもらえるかしら」
「本当に…敵いませんね、貴方には」
ジルの端正な顔が迫ってきて、傷ついた唇が彼のそれと柔らかく重なる。血をそっと舐め取られ、呆気ないくらい早く吸血鬼の食事は終わった。
「もう、いいの?」
「ええ、極上の味を味わえましたから。満足です」
しかし、その赤黒い瞳には微かな欲が見え隠れする。唇に流れた僅かな血だけでは充分な量とは言い難い。
「我慢しないでほしいわ」
「また貴方は無防備な発言をなさる……」
切なげに吐息を漏らしたジルは、自身を落ち着かせるようにベッドサイドに腰を下ろす。
手慰みにレーリアの赤髪をとくように撫でた。
「確かに喰らいたいと思う気持ちはまだあります。できれば、なんの制約もなく心ゆくまで堪能したい」
「それなら…」
「ですが、やはり貴方が心配なのですよ、レーリア。私では人間の体の不調を適切に理解して差し上げられませんから。私を安心させると思って大人しく休んでてください。これ以上、無理をなさるなら外に出られなくしてしまいますよ?」
「わ、わかったわ。ちゃんと休むから」
声色は穏やかでも言動や行動は過激なジルを彼女はすでに目撃しているのだ。彼ならやりかねないとレーリアはこくこくと頷く。
ベッドに横たわる前に背中のファスナーを上げようと腕を回したが、下げるときよりも難しく苦戦してしまった。
困るレーリアを放置できなかったらしいジルが「すみません、失礼します」と彼女の代わりにファスナーを上げようとしたのだがーー
タイミング悪く、扉が豪快に開いた。
「遅くなってごめんなさい!レーリア様!おく…すり…を…」
ララのクリっとした橙の瞳が際限なく大きく開く。
ジルの婚約者扱いされているレーリアが、ファスナーのところだけとはいえドレスをはだけさせていて、それを彼が持っている。
どう見ても、そういう勘違いをされて当然の状況だった。
固まって、みるみるうちに顔を真っ赤にしたララ、同じく固まるレーリアに、眉を顰めたジル。
ララはパクパクと唇を震わせて
「ごめんなさい!!!」
と、入ってきた時より豪快に扉を閉めて出ていったのであった。




