第16話 ④
莉子の歩みが無意識のうちに早くなったことで、一行は沈黙のまま、雪がうっすらと積もり始めた北への道を進んでいた。
凍てつく風が耳元を掠める中、莉子の少し後ろを歩いていたミーシャが、ふと遠慮がちな声でその静寂を破った。
「……莉子さん」
「ん? どうしたの、ミーシャ」
歩みを止めずに努めて平坦な声を返すと、ミーシャは少しだけ言い淀むように視線を落とし、やがて静かに尋ねてきた。
「莉子さんがずっと探しているお友達って……魔族の方、だったんですね」
その言葉に、莉子の心臓が小さく跳ねた。
(そうだ……私はミーシャに、陽菜が魔族だとは一度も言っていなかった)
これまで莉子は、「はぐれてしまった大切な親友を探している」としか伝えていなかった。
ミーシャにとって、魔族とは勇者として対峙すべき敵対種族である。もちろん、ヴィエラとこれだけ打ち解け、つい先程も共に老人を助けたばかりの彼女のことだから、魔族すわなち絶対悪という凝り固まった偏見はすでにないはずだ。
だが、莉子が感じた恐れはそこではない。
巨大な化け物が襲来する混乱の中での的確な行動。そして、人間の武装組織を一晩で跡形もなく壊滅させるほどの苛烈な手段。
結果的に奴隷たちは救われたかもしれない。だが、その過程で行使された力は、人間の尺度をとうに超えた、絶対的な強者による一方的な蹂躙だ。魔族への偏見を持たないミーシャであっても、その規格外の異質さ——ただの魔族ではなく、魔王であるということに気がついてしまうのではないか。
勇者の最大の目的は魔王を討ち取ること。
それなのに当の探し人が魔王でしかも親友だ、などと言ったところで彼女がどんな反応をするか分かったものではない。
莉子はマフラーの下で息を詰まらせ、どう答えるべきか迷った。
今更嘘を重ねるべきか、それとも曖昧にごまかすべきか。
しかし、莉子が口を開くよりも早く、ミーシャはふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「少しだけ、驚きました。でも……」
ミーシャは振り返り、少し後ろを歩くルミィとヴィエラの姿を優しく見つめた。
「ヴィエラさんと旅をして、私にも少しずつ分かってきたんです。人間にも悪い人がいるように、魔族にも色んな人がいるんだって。種族だけで、その人の心を測ることはできないって」
そして、再び莉子へと向き直り、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳を向けた。
「莉子さんが、これほどまでに必死に探している方です。きっと、とても優しくて、素敵な方なんでしょうね」
「……ミーシャ」
「先程のお爺さんのお話では、その方はとても強い力を持っているみたいでしたけれど……でも、弱い人たちを助けるためにその力を使っていた。だから、安心してください。莉子さんの大切なお友達なら、私も全力でお手伝いします」
それは、ミーシャという少女の根底にある、絶対的な善良さと誠実さの表れだった。
勇者としての警戒心よりも、隣を歩く莉子への無垢な信頼を優先してくれた。
その優しさが、今の莉子の胸をチクリと刺す。
「……ありがとう、ミーシャ。そう言ってくれて、すごく嬉しいよ」
莉子は、引きつった頬を必死に緩め、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
真実を隠したまま、都合の良い言葉だけでミーシャの善意に甘え続ける自分に言い表しようのない嫌悪感が走る。
(でも、今はまだ……言えない)
もし真実を知れば、ミーシャは一体何を思うのか。
莉子は、その恐怖から逃げるように前を向き、さらに歩調を速めていった。
◇
翌朝。重苦しい雲の向こう側で、太陽がようやく微かな白みを見せ始めた頃、莉子たちは誰に見送られることもなく静かに宿場町を出発した。
北へ向かう道は、歩を進めるごとに高く険しくなり、本当にこの先に魔族の世界が広がっているのかと疑いたくなるほど、文字通りの果ての様相であった。
次第に枯れ木すらも姿を消し、視界を埋め尽くすのは凹凸のない真っ白な雪原だけになる。あれほど莉子の頬を切り裂くように吹き付けていた冷たい北風は、いつの間にか嘘のように鳴りを潜めていた。
だが、それは天候が穏やかになったからではない。
風の音も、自分たちが雪を踏みしめる足音も、まるで見えない分厚い布に吸い込まれてしまったかのように、極端にくぐもって聞こえるのだ。
辺りから、あらゆる音が削ぎ落とされていくような不思議な感覚。あの荒んだ宿場町の喧騒すら、今となってはひどく懐かしく、温かいものだったように思えた。
無音の雪原を歩きながら、昨晩焚き火の前で固めた決意が、胸の奥で静かに熱を帯びている。
怖い。けれど、もう迷いはない。この不気味な静寂の先にある死地に、陽菜がいる。それを確かめるために、今の自分は歩いているのだから。
やがて、果てしなく続くと思われた真っ白な地平線の先に、一つの異物が姿を現した。
「……あれは」
先頭を歩いていたミーシャが、小さく息を呑んで足を止める。
莉子もその後ろから目を凝らし、目前に広がる光景に言葉を失った。
それは——巨大な門。
雪原のただ中に、磨き上げられた黒曜石のように滑らかな漆黒の石柱が、天を衝くような高さでそびえ立っている。
驚くべきことに、その門の左右には、国境を防衛するための城壁も、砦のような軍事施設も一切存在しなかった。ただ、冷たい雪原の中に、巨大な黒い門だけがポツンと、しかし絶対的な存在感を放って建っているのだ。
分厚い壁など必要ない。ここから先が誰の領域であるかは、己の目で見れば分かるだろうとでも言うように。
事実、その門を境にして、世界の風景は明確に変質していた。
門の向こう側は、手前の雪原と同じように大地が続いているはずなのに、大気の密度が決定的に違って見えた。空を覆う雲はより低く重く垂れ込め、降る雪はどこか灰の色を帯びているように錯覚する。
一本の線も引かれていないのに、そこには決して交わることのない明確な境界があるかのようだった。




