第16話 ⑤
「——止まれ」
目の前の光景に圧倒されていた莉子たちの耳に、不意に無機質で平坦な声が届いた。
巨大な黒い門の足元。深々と積もった雪の上に、いつの間にか三つの影が佇んでいた。
外套を深く被っているため表情は窺えないが、奥から覗く赤い瞳が、彼らが魔族であることをはっきりと象徴していた。
長身痩躯な出で立ちに、動きは洗練されて無駄がなく、こちらの一挙手一投足を見定められているような怜悧な気配を放っている。
彼らは魔族の領土を護る、境界の守護者だった。
「ここより先は、我らが主の理が支配する領域である」
中央に立つ守護者が、滑るような足取りで数歩前に出た。
剣を抜くわけでもなく、怒りや殺気といった感情の揺れすら一切放たない。
ただそこに立つだけの事務的な振る舞いだが、その内側に尋常ではない力が秘められていることを莉子の感覚は正確に見抜いていた。
莉子が剣を振るえば彼らを制することも出来るかもしれない。だが、今の莉子の目的はこの大陸の魔族と争うことでもなければ、そもそも干渉すべきことでもない。
下手に事を構えれば厄介なことになる——一刻でも早く陽菜に追いつきたい今の状況で、そうなることは避けたかった。
「見慣れぬ個体にして、極めて脆弱な生体反応。許可なき侵入者であるなら、直ちにこの場で排除する」
守護者の冷徹な視線が外套の奥から莉子たちを射抜き、一触即発の空気が張り詰めた、その時だった。
「私に任せて」
莉子の背後から小さく声を上げたのは、顔を強張らせたヴィエラだった。
彼女はミーシャの横をすり抜けると、三人の守護者の前へと進み出た。
その小さな背中は微かに震えていたが、彼女は努めて堂々と振る舞うように、外套のフードを後ろへ跳ね除けた。そして、右手にはめていた手袋をゆっくりと外し、その真っ白な手の甲を真っ直ぐに守護者たちへと向ける。
同時に、これまで息を潜めるように隠していた彼女自身の魔力が、冷たい大気の中へと静かに解き放たれた。
「——確認なさい」
ヴィエラが手の甲に意識を集中させると、何もないはずの白い肌の下から、青白い光を放つ複雑な幾何学模様がゆっくりと浮かび上がった。
それが何を意味するのか、莉子には分からない。だが、そこから発せられる魔力の質が、並の魔族とは一線を画す高位なものであることだけは、肌を刺すような空気の重さで理解できた。
守護者たちの赤い瞳が、その紋章を値踏みするように細められる。
「生体魔力、及び紋章の励起を確認。……確かに、同胞にして極めて高位の階位を持つ者。そなたは四天王であるか」
中央の守護者が、相変わらず抑揚のない声で答える。
「しかし、その紋章は我が大陸の主が授けたものではない。異邦の高位魔族が、何ゆえに許可なく境界を越えようとするのか。そして、その後ろの人間たちは何か。理に合わない」
重ねられた問いに、ヴィエラは即座に不敵な笑みを返すと、わざと傲慢に聞こえるよう言い放った。
「私は海を越えた同胞の主より遣わされた密使よ。この大陸の主たちと誼を通じるための密命を帯びているの。これがその親書。そして、その後ろの人間たちは……ル・シエンの長へ贈るための、希少な手土産よ」
ヴィエラの手元には、いつの間に用意したのか金属の筒とそこから取り出された封書が握られている。
聞いた瞬間にヴィエラが一芝居打ってくれていることは莉子にもすぐに分かった。
もしこのハッタリが通じず、彼らが問答無用で排除の対象とみなせば、その瞬間に死闘が始まるだろう。
ヴィエラはさらに重ねた。
「一介の門番が、王族間の外交を阻むというの? 気をつけなさい。あなたの判断ひとつで、両大陸の主の顔に泥を塗ることになるかもしれないわよ」
どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも似た数秒の後、中央の守護者がゆっくりと身を引いた。
「……確認しました。外交使節の通行、及び供物の持ち込みを許可します。お通りください、異邦の同胞よ」
守護者たちはまるで精密な機械のように同時に道を譲り、黒曜石の柱の間を開け渡した。
ヴィエラは小さく息を吐き出すと、振り返りもせずに「行くわよ」とだけ告げ、門の向こう側へと歩き出した。莉子たちもそれに続く。
巨大な門をくぐる際、守護者たちの赤い瞳が背中に突き刺さるのを感じたが、彼らが追ってくる気配はなかった。
門を越えた瞬間、大気の質が決定的に変わる。
肺に吸い込む空気が一段と冷たく、重みを増したように感じられた。ついに、人間の理が届かない魔族の領土へと完全に足を踏み入れたのだ。
そのまま無言で歩き続け、関所から十分に離れ、巨大な門が灰色の雪霞の向こうに完全に見えなくなった頃。
前を歩いていたヴィエラがふっと足を止め、小さく、しかし深く息を吐き出した。
「ヴィエラさん?」
ルミィが覗き込むと、ヴィエラは額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭い、小さく肩をすくめた。
「……さすがに少し神経を使ったわね。見破られれば、面倒なことになっていたから」
四天王というかつての肩書きがあるとはいえ、一歩間違えれば戦闘に発展しかねない綱渡りのハッタリだったのだ。それでも取り乱すことなく冷静に息を整える姿には、かつて軍を率いた強者としての矜持が垣間見えた。
「お疲れ様です。でも……手土産ってなんですか。私、ヴィエラさんの供物になっちゃったんですか?」
「なっ……あ、あんたたちを無事に通すための方便でしょ! 少しは感謝しなさいよね!」
わざとらしく小首を傾げるルミィに、ヴィエラは顔を真っ赤にして抗議する。
その軽口を叩き合う様子に安堵しつつ、莉子は先ほどから胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「ヴィエラ。さっき手の甲に浮かび上がっていた模様……あれは一体?」
莉子の問いに、ヴィエラは小さくため息をつくと、自分の右手をそっと握りしめる。
「……魔力を通した時にだけ浮かび上がる、まあ、身分証みたいなものよ」
ヴィエラはあえてそれ以上の深い事情を語ろうとはせず、はぐらかすように外套の裾を翻した。
「ありがとう、ヴィエラ。本当に助かったよ」
深く語りたがらないその様子に、莉子もあえてそれ以上は追及しなかった。
莉子の知らないヴィエラの秘密や魔族の常識なんていくらでもあるのだろう。だが彼女は今ここで自分たちを先に進ませるために、体を張って道を切り拓いてくれた。その事実だけで十分だった。
かつての莉子は、魔王を倒すためなら世界中を敵に回してでもたった一人で戦い抜くつもりだった。
自分に降りかかるすべての悪意を一人で切り伏せる。それが勇者としての自分の役目であり、正しい在り方なのだと信じて疑わなかった。
けれど今は違う。
ヴィエラたちがこうして、共に手を取り合い、道を切り拓いてくれている。
この旅を通じて、自分の掲げた正義がどれだけ独りよがりなものだったのかが痛いほど分かっていた。
だからこそ——もう一人で何もかもを背負い込む必要はないのだ。
「……行こう」
莉子は、北の空を覆う重苦しい灰色の雲を見据え、静かに、けれどはっきりとした声で告げた。
「ル・シエンは、きっとこの先だ」
冷たい風が、マフラーの赤い端を小さく揺らす。
再会への恐れも、焦りも、まだ胸の奥底にくすぶっている。親友とどう向き合うべきか、その答えもまだ見つかっていない。
それでも莉子の足取りには、もう迷いはなかった。
遠く離れた地にいる、ただ一人の親友と向き合うために。
四人の少女たちは、灰色の雪が舞う魔族領の大地へと、確かな一歩を踏み出した。




