第16話 ②
「大丈夫ですか?」
ミーシャが剣を腰に戻し、泥だらけの老人のそばへと歩み寄って膝を突く。
「おお……ありがとうございます、旅の方……」
老人は安堵の息を吐きながら身を起こそうとしたが、ふと顔を顰めて額を押さえた。突き飛ばされた際に石の角で打ったのだろう。指の隙間から、赤い血が一筋流れ落ちていた。
「ルミィ、お願いできる?」
莉子が振り返って声をかけると、後方で様子を見守っていたルミィが「はい」と短く応え、小走りで駆け寄ってきた。
老人の前にしゃがみ込み、傷口に両手をかざそうとするルミィ。だが、そこへもう一つの影が、隣に並ぶようにしてそっと膝をついた。
ヴィエラだった。
「ヴィエラさん……?」
驚いて目を丸くするルミィをよそに、ヴィエラは少しだけ気まずそうに視線を逸らしながら、老人の額へと小さな両手をかざした。
「……私も、やるわ」
「え?」
「いいから。あんたは黙って手本を見せてなさいよ。……まだ、少ししか教わってないんだから」
ぶっきらぼうな口調で言い捨てながら、ヴィエラはかざした手のひらに意識を集中させる。
ここ数日の旅の中、野営の夜や移動の合間に、ヴィエラはルミィから少しずつ治癒魔法の基礎を教わっていた。かつて人間を激しく憎悪していた魔族の少女が、人間の魔法を学び、見ず知らずの他人のためにそれを使おうとしている。
その事実がどれほど大きな変化であるか、ルミィには痛いほどよく分かっていた。
「……はい。一緒にお願いしますね」
ルミィはふわりと嬉しそうに微笑むと、ヴィエラの手を包み込むように自身の手を添え、魔力を紡ぎ出した。
ルミィの手から発せられる暖かな黄金色の光に混じって、ヴィエラの手からも、まだ弱々しいが確かな熱を持った淡い光がこぼれ落ちる。二つの光は静かに混ざり合い、老人の額の傷を優しく包み込んだ。
見る間に血は止まり、開いていた傷口が嘘のように塞がっていく。
「おお……」
痛みから解放された老人は、目の前で光を灯す二人の少女の顔を交互に見つめた。
人間の少女と、魔族の少女。
決して交わるはずのない二つの種族が、こうして肩を並べ、互いの魔力を重ね合わせて自分を癒してくれている。その奇跡のような光景を前に、老人は言葉を失ったようにただ震えていた。
「こりゃあ……痛みが、引いていく……」
傷が癒えた老人は、額に触れながら信じられないものを見るように目を丸くした。そして、目の前で光を灯してくれた二人の少女の顔を交互に見つめ、ふとヴィエラの姿に目を留めた。
「あんた……魔族、なのかい?」
「よく分かったわね。何か文句ある?」
ヴィエラは、陽菜ほどではないにしてもほとんど完璧に魔族としての特徴を隠すことが出来る。
普通の人間が見るだけでは分からないはずだが……。
ヴィエラは低い声とともに警戒するように身を強張らせたが、それを見た老人は慌てて横に首を振った。
「すまねえ、警戒させてしまったな。いや、あんたみたいな魔族や亜人は見慣れてるんだ……それで何となくな。それにあんたらを見てると、俺たちを地獄から救い出してくれた恩人を思い出してな」
「恩人?」
ヴィエラが小首を傾げると、老人は深く息を吐き、泥だらけの地面に手をついたまま語り始めた。
「俺たちは、北のゼノア鉱山から逃げてきた奴隷なんだ。あそこで死ぬまで石を掘らされる運命だったんだが……数日前、とんでもねえ大きさのバケモンが現れてよ。その場に居合わせた魔族の姉ちゃんが俺たちを解放してくれたのさ」
「ゼノア鉱山……化け物……? 何の話ですか?」
ミーシャが驚いたように聞き返す。
彼女だけではない。莉子たち他の面々も聞いたことのない地名やそこで起きたであろう出来事の羅列に頭が追いつかず、皆頭に疑問符を浮かべている。
「悪い、説明不足だった……。実はな——」
老人はルミィたちの手当を受けながら、ゼノア鉱山という人魔の区別なく人身売買や鉱山労働が強いられていた場所のこと、ある日の晩に突如大きな音とともにあちこちで火事が起き、空を覆うほどの巨大な何かが現れたこと、そしてその混乱に乗じてある少女が自分たちを解放してくれたことをかいつまんで説明した。
その会話を背後で聞いていた莉子は、心臓が大きく跳ねるのを感じて無意識に一歩前へ踏み出していた。
「お爺さん。……その女性、次はどこへ行くって言ってたか分かりますか?」
「ああ。一緒にいた半魔の坊主の母親を探すとかで……さらに北の『ル・シエン』って場所へ向かうと言っていたよ」
莉子は、努めて冷静な声を保ちながら、さらに老人に問いかけた。
「……その人の特徴を、教えてもらえませんか」
「そうさな……桜みたいに綺麗な、桃色の髪をした……とんでもなく強い力を持った、魔族の姉ちゃんだったよ」
桃色の髪の、強い力を持った魔族の女性。
そして共に行動する半魔の少年。いつしか宿場町の酒場で聞いた噂話——街を裏から支配し、人身取引の集散地でもあった商館を、二人組の魔族が一晩で潰したという情報にも一致する。
ここまで条件が揃った今、莉子の頭には一人の親友の顔しか浮かばなかった。
(……陽菜)
凍てつくような冷たい風が吹き抜ける路地裏で、莉子は無意識に、自身の首元に巻かれた赤いマフラーをきつく握りしめていた。




