第3話 ①
カラン、という最後の客を見送るベルの音が鳴り止み、営業を終えた店内には、仄かなコーヒーの残り香だけが漂っていた。
「うーん」
すっかり静けさを取り戻したホールで、莉子はテーブルに深く肘をついたまま、さっきから悩ましげな唸り声を上げている。
その視線の先には、一枚のメニュー表が広げられたままになっていた。
「どうしたの?」
向かいの席では、退屈そうに毛先を弄っていた陽菜が、ふと顔を上げてこちらを見つめていた。
先に休むように伝えたはずだが、彼女は結局莉子のそばに居残っている。
手持ち無沙汰なのだろう。とはいえ、追い返すつもりは毛頭なかった。
夜の帳が下りれば、あとに残るのは深い静寂だけ。
時間を潰すような便利な娯楽を持たないこの世界では、こうして誰かと時間を共有することだけが、夜をやり過ごす唯一の術なのだと分かっていたからだ。
陽菜はテーブルにぺたんと頬をすり寄せ、丸い瞳をぱちぱちと瞬かせている。
それがなんだか小動物みたいで、莉子は気付けばその頭を撫でていた。
彼女の薄い桃色の髪が、ランプの柔らかな灯を含んで温かみある琥珀色を宿している。
触れた感触は絹のように滑らかで、いつまでもそうしていたくなるような心地よさがあった。
「何するんだよぉ」
「なんか、つい」
そう誤魔化しながらも、莉子が手を止めることはなかった。
陽菜の方も嫌がるどころか、されるがままに目を細めているので、莉子はそのまましばらく穏やかな時間を満喫する。
すでにルミィとヴィエラは店を出て、この喫茶店には二人だけ。
風のない静かな夜だった。
(記憶を取り戻す前は、どうやって時間を潰していたんだっけ)
指先で柔らかな髪を梳きながら、ふとそんな考えがよぎる。
この世界で生まれ育った記憶が失われたわけではない。両親の温もりも、勇者として仲間と野を越えた日々のことも、目を閉じれば確かにそこにある。
――けれど。あの日、陽菜とともに『柊莉子』としての記憶を鮮烈に思い出してしまってからというもの、かつての自分にはどうしてもピントが合わなくなってしまった。
確かなはずの今世の輪郭が、まるで他人の夢でも見ているかのように頼りない。
そんな寄る辺なさのせいだろうか。気付けば莉子の口からは、場違いな問いがこぼれ落ちていた。
「ねえ、陽菜。記憶を取り戻して、良かったと思う?」
「えー、なに、急に。そりゃあ良かったでしょ。なんでそんなこと聞くの」
「うーん、なんだろうな。……まだ言葉になってるわけじゃないんだけど」
「変な莉子ちゃん。それ、ずっと見てたのと関係あるの?」
陽菜が手元のメニュー表を指で指した。
そうだった。元々彼女が訊いてきたのに、会話が明後日の方向へ行ってしまっていた。
「あ、ううん。これは違くて。そろそろメニューを増やしたいな、って思ってたのよ」
「おお。いいじゃん」
「でも、どんなのがいいか思いつかなくてさ」
そこには、麦粥や魚介のスープ、野菜のフリットなど、いわゆる大衆向けのオーソドックスな献立が並んでいる。
別に客から不満が出たわけでもない。
ありがたいことにこの店の味が好きと言ってくれる常連さんもいる。
自分自身、そうして懇意のお客様を大切に、慎ましく営業できればいいと今でも思っている。
だが、ルミィとヴィエラの二人も加わり、それに合わせて客数も増えてきた。
せっかく来てもらえたなら、目一杯楽しんでもらいたい。
そう思ったら、もう少しインパクトのあるメニューが欲しいなぁ、という欲が出てきてしまったのである。
「あー、じゃあ前言ってたアレやっちゃう?」
「アレって?」
「ほら、日本の料理を再現しようか、みたいなこと言ってたじゃない」
「あー」
それはルミィたちが店にやって来て間もない頃、莉子がふと思いつきで口にした言葉だ。
あんな何気ない一言をよく覚えているものだと、内心で小さく感心する。
あのときは確か、サンドイッチやオムライスを作ってみたい、なんて他愛のない話をしたのだったか。
(……うん。サンドイッチ、すごく食べたいな)
ふと、前世の記憶を刺激するその懐かしい響きが、先ほどまで言葉にできなかった「物足りなさ」と結びつくのを感じた。
「……名案かも。さすが陽菜」
「お、おう。いや、元はといえば莉子ちゃんが言ってたことだけど」
そう言いながら、困惑したような目を向けている。
莉子は少しの間顎に手を当てて、やがて「よし」と小さく呟いた。
「明日、試してみよう」
思い立ったが吉日だ。莉子は弾かれたように立ち上がると、テーブルのメニュー表を手早くまとめ、足早にホールを後にする。
「……変な莉子ちゃん」
一人ぽつんと取り残された陽菜の呟きが、静かな店内に小さく響いた。
階段に足をかけた莉子は、その声にほんの少しだけ口元を綻ばせた。
◇
そして翌朝。
開店前の店内には、いつもより少しばかり浮き立った空気が満ちていた。
「こ、これが、新メニュー……!」
テーブルに身を乗り出したルミィのはしゃいだ声が響く。
その隣では、ヴィエラも「ほう……」と珍しく目を丸くして、テーブルの中央を凝視していた。
二人の視線の先、大きめの皿の上に鎮座しているのは、先ほど完成したばかりのサンドイッチの試作品だ。
キッチンの奥からパタパタと陽菜が出てきて、空いていた椅子に腰を下ろす。
「とりあえず余ってた具材を使って三つ作ってみたよ。さあ、みんなで食べてみて」
未知の料理に「わあ」と目を輝かせる二人につられるように、莉子も皿から一つを手に取った。
新鮮な葉野菜と、瑞々しい赤ナスに粗塩で炙った鶏肉が黒パンに挟まれている。
具と具の間には、黄色っぽいソースがとろりと覗き、食欲をそそった。
余り物と言いつつも、丁寧な調理がなされているところはさすが陽菜である。
「いただきます。あむ……む、ぐ。むぐぐ」
しかし、大口を開けてかじり付いた瞬間――ガキッ、と鈍い衝撃が顎を襲った。
(か、硬い……! 中の具材はすっごく美味しいのに!)
無理もない。陽菜の手で丁寧に下ごしらえされた極上の具材を挟んでいるのは、この世界に流通しているカチカチの黒パンなのだ。
もちろん普段から食べ慣れてはいるが、「サンドイッチ」という柔らかな響きを期待して全開になっていた脳と顎に、この岩石のような歯ごたえはあまりにも理不尽だった。
ふと隣を見ると、サンドイッチという概念をそもそも知らないルミィとヴィエラが、「美味しいですね」などと言いながら、ゴリゴリ、ボリボリとサンドイッチにあるまじき咀嚼音を響かせている。
莉子が余程絶望的な顔をしていたのだろう。
視線の先で、陽菜が「だよね」とでも言いたげな苦笑いを浮かべていた。
彼女自身も、この出来栄えには到底納得がいっていないらしい。
「やっぱり違うかな?」
「い、いえ、美味しいですよ」
「小娘ごときに賛同するのは癪ですが、陛下のお作りになった一品はすべて至高です!」
まだ陽菜への態度が硬いルミィだが、作ってもらった料理への感謝は忘れないあたり、本当に律儀でいい子である。
ヴィエラは、愛する陛下の生み出したものなら泥でも絶賛しそうな勢いなので完全に採点枠外だ。
だが、莉子の脳裏に焼き付いているのは、きれいに三角形に切り揃えられた、あの白くてふんわり柔らかな食パンの感触。
どれだけ具材が美味しくとも、思い出の柔らかさを妥協してまで、目の前の岩をサンドイッチと認めるわけにはいかなかった。
「……陽菜。こうなったら私たちで作るしかないわ。真のサンドイッチというものを」
「その覚悟、受け取ったよ。とことんやってやろうじゃないの」
ゴオォォッ、と。背後に見えない炎のオーラを立ち昇らせ、莉子と陽菜はガシッと拳を突き合わせた。
「な、なんか二人が今まで見たことないくらい燃えています」
「あぁ、真剣な陛下のお顔も素敵……」
温度差の激しい四人による、果てなきパン作りの道がここに始まるのだった。




