第15話 ⑦
結露の跡がすっかり消え去ると、アリシアはふうと小さく息を吐き、再び執務机へと戻っていった。
だが、彼女が向かったのは山積みの書類ではなく、机の最も下にある、目立たない引き出しだった。
周囲を警戒するように、誰もいない密室であるにもかかわらずちらりと部屋の隅へ視線を走らせた後、彼女はそっと引き出しを開けた。
そこから取り出されたのは、小さな紙包み。
中に入っていたのは、砂糖がまぶされた可愛らしい焼き菓子だ。アリシアはそれを両手で大切そうに包み込むと、誰かに見つからないか怯えるような、それでいて待ちきれないような手つきで、こっそりと口へ運んだ。
こりっ、と小動物のように菓子を齧る。
その瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、年相応の、純粋で無防備な至福の表情だった。
夜更けの執務室で、魔王が人目を忍ぶようにお菓子を盗み食いしている。
あまりにもちぐはぐで、あまりにも子供じみたその隠し事に、ヴィエラは思わず毒気を抜かれたように小さく息を漏らしてしまった。
カチャリ。
気が緩んだせいで、手元の銀トレイに乗ったティーカップが、微かな音を立てた。
ほんの些細な陶器の触れ合う音だったが、静まり返った室内では致命的だった。
ビクッ、とアリシアの肩が大きく跳ねる。
彼女は弾かれたように扉の方を振り返り、その大きな瞳を限界まで見開いて、隙間から覗き込んでいたヴィエラと完全に視線を交差させた。
「——っ!?」
口元に菓子の食べかすをつけたまま、アリシアは完全に硬直した。
見られてはならないものを見られた。その事実を理解した途端、彼女の顔がカッと朱に染まる。
ヴィエラはもう隠れていても仕方がないと悟り、ゆっくりと扉を押し開けて執務室の中へ足を踏み入れた。
「……な、何故其方がここにいる!?」
アリシアは慌てて残りの菓子を背中に隠し、必死に威厳を取り繕おうと声を張り上げた。
だが、その声はひどく上ずっており、ヴィエラの前に初めて姿を見せたときのあの絶対的な重圧はどこにもない。ただの、悪戯を見つかって動揺している少女の姿がそこにあった。
「いつからそこにいた!? ち、違うぞ、これは……その、余は為政者としての激務の合間に、少しばかり糖分を……っ」
「……お茶をお持ちしました」
早口で言い訳を並べ立てるアリシアの言葉を遮るように、ヴィエラは淡々と告げた。
そして、戸惑う彼女をよそに真っ直ぐ机へと歩み寄り、崩れた書類の山の横にあるわずかな空きスペースへ、銀のトレイを静かにことりと置いた。
立ち上る紅茶の温かい香りが、一人分にしては大きすぎる部屋の中に広がっていく。
「あ……いや、余は別に、頼んだ覚えは……」
アリシアは気まずそうに目を泳がせ、ヴィエラとトレイを交互に見つめた。
卓上のランプに照らされたその顔にはわずかに朱が差している。
「……見苦しいところを、見せたな」
やがて、諦めたように息を吐くと、小さな声でぽつりとこぼした。
どこか寂しそうなその表情に、ヴィエラは初めてこの小さな魔王の抱える思いを感じ取った気がした。
ヴィエラは彼女を責めることも嘲笑うこともなく、ただ無言のまま、トレイの上に乗っていた厨房の焼き菓子を一つ、指先でつまみ上げた。
パキッ。
乾いた音を立てて、ヴィエラはその菓子を真っ二つに割った。
そして半分を自分の手元に残し、もう半分を、呆然としているアリシアの目の前へそっと差し出した。
「……え?」
「……食べる?」
魔王に対する礼儀なんて、今は必要ない。
ただ、同じようにお腹をすかせ同じように孤独を抱えた子供同士、ヴィエラは彼女に歩み寄ってみたくなった。
アリシアは、差し出された半分の菓子とヴィエラの不機嫌そうな瞳を、信じられないものを見るように見つめ返した。
先ほどの侍女たちの集まりも、初めてヴィエラの元を訪ねてきたときも。彼女の周りにいる大人たちは、誰もが彼女を王として扱い畏れ敬うだけだった。きっと今までもこれからも、彼女と対等に接することのできる存在などいないのだろう。
震える指先が、ゆっくりと伸びる。
アリシアは、ヴィエラの手からその半分の菓子をそっと受け取ると、恐る恐るひとかじりした。
ヴィエラもそれに合わせるように小さな口を開ける。
サクサクとした食感と甘いバターの香り。
ふと、昔お母さんが作ってくれた焼き菓子の味を思い出した。
もっと不格好で、味だって今食べているものの方がはるかに上等だ。
それでも、あの時間はヴィエラにとって何よりも大切で、温かい思い出だった。
村が焼かれたあの夜から、今初めてヴィエラの頬を一筋の雫が伝った。
そしてそれに呼応するように、目の前の小さな魔王の目にも涙が浮かんでいた。
「……あ……れ……?」
自分が泣いていることに驚いたように、アリシアは空いた手で慌てて目元を拭った。
だが、一度決壊した涙は止まらず、次から次へと溢れ出し、彼女の膝の上にぽたぽたと染みを作っていく。
それを誤魔化すように、ヴィエラに語りかけた。
「……どうして、其方が泣くのだ」
しゃくり上げながら、アリシアが潤んだ瞳で尋ねてくる。
「……分かりません。ただ、昔……お母さんが作ってくれた味に似ていたからかも」
「そう……」
ヴィエラがぽつりとこぼすと、アリシアは手の中の半分になった菓子を見つめた。
そして不格好に顔をくしゃくしゃにして、ふふっ、と笑う。
「誰かと一緒に食べると、これほどに……美味しいのだな」
止めどなく涙を流し、それでも嬉しそうに菓子を頬張るアリシア。
それはただ年相応の、寂しがり屋な子どもそのものだった。
そんな彼女の姿を見ているうちに、暗く閉ざされたヴィエラの胸の奥に、不思議な温かさがじんわりと広がっていくのを感じた。
奪われた家族も、帰るべき故郷も、もう二度と戻らない。
けれど、誰も寄せ付けず孤独に震えていたこの王様の隣になら——自分から寄り添い、共に在ることができるかもしれない。
「……明日も」
ヴィエラは、自身の頬を濡らす涙もそのままに、ぽつりと告げた。
「明日も、お茶を持ってきます。……だから、また一緒に食べましょう」
その言葉に、アリシアは大きな瞳をさらに見開き、それから弾かれたように何度も、何度も頷いた。
「……うんっ、うん……!」
夜更けの執務室。冷たい石壁に囲まれた密室で、二人は甘い焼き菓子を分け合いながらいつまでも静かに泣き続けた。
主従の誓いや忠誠と呼ぶにはあまりにも幼い。それでもこれが、何よりも強固な——村を焼かれすべてを失ったヴィエラが、再び生きる理由を見出した瞬間だった。




