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第15話 ⑥

 背中の生々しい火傷がようやく塞がり、ようやく少しずつ動けるようになった頃。

 ある夜更けのことだった。


 ふと目を覚まして用を足しに部屋を出た帰り道。

 静まり返った廊下を歩いていたヴィエラは、厨房の扉の向こうから漏れ聞こえてくる話し声に足を止めた。


「どうしましょう……魔王様、朝からずっと執務室に籠もりきりで……」

「何度ノックをしてお声がけしても、全くお返事がないの。お食事も手付かずのままだし、いくら何でもお身体に障るわ……」


 ひそひそと交わされる、困り果てたような侍女たちの声。

 魔王に対する敬意などヴィエラには微塵もなかったが、あの派手な見た目のいけ好かない少女が「人を遠ざけてまで部屋に籠もる」ということに、ほんの僅かな疑問を抱いた。

 

 気がつけば、ヴィエラは音もなく厨房へ足を踏み入れていた。突然現れた少女に侍女たちが驚き、慌てて頭を下げる。


「……私が持っていく」

「あなたは!? いえ、そのような……怪我人に、このようなお運び立てなどさせるわけには参りません」


 狼狽して遠慮する侍女たちに対し、ヴィエラは感情の薄い声で返した。


「ずっと部屋にいて、退屈していたから。……貸して」


 反論を許さないような口調でそう告げると、彼女たちが戸惑いながら用意していた銀のトレイを自ら持ち上げた。そこには温かい紅茶と、少しばかりの焼き菓子が乗せられている。


 魔王城の奥深く、アリシアの執務室へと続く廊下は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。

 分厚い赤絨毯がヴィエラの足音を完全に吸い込み、壁に等間隔で掲げられた魔石の灯りだけが、冷たい石造りの空間をぼんやりと照らし出している。


 やがて辿り着いた最奥の部屋。

 見上げるほど巨大な黒檀の扉は、なぜか完全に閉まりきっておらず、ほんの僅かに——数センチほどの隙間を開けていた。

 ヴィエラはノックをしようと片手を上げたが、ふと、その隙間から漏れ聞こえてきた微かな音に動きを止めた。


 かさり。ばさっ。


 それは、紙が擦れるような、あるいは束になった何かが崩れ落ちるような、乾いた音だった。

 何か探し物でもしているのだろうか。そう思い、ヴィエラは扉の隙間からそっと執務室の中を覗き込んだ。

 そして、その光景に思わず目を疑った。


 部屋の中央にある巨大な執務机。その上には、国内の各領地から上がってきたであろう膨大な量の羊皮紙や書類が、いくつもの山となって積まれていた。

 その書類の山の真ん中で、漆黒の法衣を身にまとった魔王アリシアは、ペンを握るでもなく、ただ書類を一枚、また一枚と慎重に折り重ねていたのだ。


(……何をしているの?)


 書類を整理しているわけではない。

 アリシアは、まるで幼い子どもが積み木で遊ぶかのように、束になった書類を縦にしたり横にしたりして、不格好な塔を築き上げているのだ。

 彼女の小さな手が、息を詰めるようにして最上段に書類を乗せる。しかし、バランスを崩した紙の塔は、あっけなく音を立てて机の上に崩れ落ちた。


「……あーあ」


 アリシアの口から、年相応の気の抜けた声が漏れた。

 それは、初めてヴィエラの部屋を訪れた時の、あの威厳に満ちた硬質な声とは似ても似つかないものだった。

 アリシアは崩れた書類を前にして、つまらなそうに頬杖をつく。その横顔には、冷徹な魔王の影など微塵もなく、ただ退屈を持て余した孤独な子どもの姿があった。


 やがて、書類遊びにも飽きたのか。

 アリシアは机から立ち上がると、部屋の奥にある大きな窓辺へと歩み寄った。


 外の凍てつくような夜の冷気と、暖炉で暖められた室内の温度差により、硝子窓は分厚い結露に覆われ、白く曇っている。

 アリシアはじっと曇り硝子を見つめていたが、やがて、華奢な人差し指を伸ばし、その表面をそっと滑らせ始めた。


 きゅ、きゅっ、と微かな音が室内に響く。

 窓枠の影に隠れながら、ヴィエラは彼女が何を描いているのかをじっと見つめた。


 大きな丸に、棒のような手足。それが三つ、仲良く手を繋ぐように並んでいる。

 家族の絵なのか、それとも、同年代の友達と手を繋いで歩く姿を想像して描いたものなのか。拙い線の集まりだけでは上手く判別すらできない。

 あの絶対的な権力者が、誰もいない夜の密室で、硝子の水滴に指を濡らしながら、決して手の届かない他愛のない夢を無心に描いている。


(……この人は、もしかして)


 ヴィエラは、痛む背中に無意識に力を込め、年端もゆかぬ少女の小さな背にのしかかる重圧と、それゆえの孤独を感じ取った。


 描かれた端から、温かい室温に溶けた水滴が、絵の輪郭を崩していく。

 まるで硝子が音もなく泣いているかのように、手を繋いだ三人の落書きは、あっという間に水の筋となって流れ落ち、消えてしまった。


 その儚い消失を、アリシアはただ静かに、寂しそうな瞳で見送っていた。


 あの夜、人間の理不尽な暴力によって、すべてを奪われた自分。

 そして、生まれ持った強大な力のせいで、子どもとしての当たり前の幸せを最初から奪われていたこの少女。


 魔王という分厚い仮面の下に隠されていた寂しい素顔に、ヴィエラはトレイを握る手の力をほんの少しだけ強くした。

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