第15話 ⑤
焼け跡の川岸で拾われ、魔王城の庇護下に入ってからの日々は、ヴィエラにとってすべての色彩と温度が抜け落ちたような時間だった。
与えられたのは、城の片隅にある豪奢な客室だった。
なぜ辺境の小さな村の少女をここまで手厚く保護してくれるのか当時のヴィエラには分からなかったが、どうやらこの城の主が、村を焼かれ親を殺された小娘を憐れに思ったから、という話を後に耳にすることになる。
肌触りの良い絹のシーツに、ふかふかの絨毯。窓からは手入れの行き届いた美しい庭園が見下ろせ、三度の食事は温かく、火傷の治療には国内でも最高峰の治癒魔法使いが呼ばれた。
だが、どれほど贅を尽くされた環境を与えられようとも、ヴィエラの心は冷たく硬く閉ざされたままだった。
美しい庭園を見ても、家族と泥だらけになって駆け回った森の木漏れ日には敵わない。
繊細な味付けの豪勢な料理も、母が作ってくれた麦のパンと茸の汁物の温かさには遠く及ばない。
背中の火傷がゆっくりと癒えていくのとは対照的に、彼女の内側は底なしの虚無と、人間に対するどす黒い憎悪の炎だけで満たされていた。
メイドたちがどれほど優しく話しかけても、ヴィエラは人形のようにほとんど言葉を返さなかった。
ある日の午後、前触れもなく客室の重厚な扉が開かれた。
普段世話をしてくれているメイドたちが、弾かれたように壁際へ下がり、深く頭を垂れる。
静かな靴音と共に部屋へ入ってきたのは、一人の少女だった。
年の頃は、ヴィエラとそう変わらないか、ほんの少し上に見える程度。しかし、その華奢な身体を包み込んでいるのは、豪奢な金糸の刺繍が施された重苦しい漆黒の法衣だった。
そして何より、彼女が足を踏み入れた瞬間、部屋の空気が一変した。
呼吸が苦しくなるほどの、圧倒的な質量の気配。
それは明確な敵意や殺気などではなく、ただそこに存在しているだけで周囲の空間を歪ませてしまうような、途方もない魔力の密度だった。深い海の底に沈められたかのような重圧感に、ヴィエラは思わず息を詰める。
少女は、真っ直ぐにヴィエラのベッドの傍らまで歩み寄ると、感情の読めない冷ややかな瞳で見下ろしてきた。
「……其方が、南の森の集落の生き残りか」
鈴を転がすような澄んだ声と、大仰な時代がかった口調と隙のない立ち姿。
あどけなさの残る大きな瞳も相まって何ともちぐはぐな見た目なのに、瞬きひとつ許さないような強烈な威圧感。
「余は魔王、アリシアである」
魔王——それはこの城の主であり、ひいてはこの魔界全土を治める王の名。
だが、その名を名乗った少女を前にしても、ヴィエラは頭を下げることも、怯えることもしなかった。
ただ、乾ききった空虚な瞳で、彼女の顔をじっと見つめ返しただけだった。
(……だから、何だっていうの)
ヴィエラの心に浮かんだのは、畏敬ではなく、冷ややかな反発だった。
いかに魔王が圧倒的な力を持ち、あらゆる魔族が傅く絶対的な存在であろうと、関係ない。
もし本当に強いのであれば、あのとき村を助けに来ることが出来たはずなのに。
今のヴィエラにとっては、人間も魔王も変わらない。彼らは下々のささやかな幸せなど見向きもしない。強者は常に理不尽で、弱者はただ踏みにじられるだけ。
ヴィエラは無言のまま、拒絶を示すように冷たい視線をアリシアへと向けた。
敵意を露わにしたヴィエラに対してアリシアは——ほんの微かに息を呑んだ。
ヴィエラにとっては意外だった。なぜかは分からないが、あの魔王の瞳が僅かに揺れている。
アリシアは小さく咳払いをして、より一層威厳を取り繕うように、硬い声で言葉を継いだ。
「……背中の傷は、随分と良くなったようだな」
「…………」
「もう案ずることはない。其方の身は、この魔王城において永代に保護する。……何不自由なく暮らせるよう、余が手配を命じておいた。安心して休むが良い」
本来であれば魔王の慈悲に、頭を床に擦り付けながら感謝するべきなのだろう。
だが、あまりにも立派で、台本を読み上げているようなその言葉の羅列は、ヴィエラの凍てついた心には一滴も染み込んではこなかった。
何不自由なく暮らせる。そんなことは求めていない。
お腹がいっぱいにならなくてもいい。こんな柔らかいベッドがなくてもいい。ただ、両親のいるあの素朴な家に帰りたかった。それが叶わないなら、どんな言葉だって意味なんてない。
ヴィエラはぷいっと顔を背け、布団を引き上げて完全にアリシアを無視した。
「……っ」
明確な拒絶の態度。
為政者に対する明らかな不敬に、周囲のメイドたちが息を呑む気配がした。
だが、アリシアは怒鳴ることも、罰を与えることもなかった。
背を向けたヴィエラの小さな肩をしばらくの間無言で見つめていたが、やがて、どこか所在なさげに、けれど取り繕った威厳だけは崩さないように静かに踵を返した。
「……失礼したな」
最後にそう言い残し、漆黒の法衣を翻して部屋を立ち去っていく。
重厚な扉が閉まり、圧倒的な魔力の重圧が消え去った後も、ヴィエラは丸くなったまま動かなかった。
冷たい人。
それが、魔王アリシアに対するヴィエラの最初の印象だった。
自分の心になど微塵も寄り添おうとしない、高い玉座の上からただ事務的に救いを押し付けてくるだけの、孤独で無機質な王。
この時のヴィエラはまだ、あの硬く張り詰めた魔王の仮面の下に隠された顔など、知る由もなかったのだ。




