第15話 ④
パニックで頭が真っ白になりながら、ヴィエラの脳裏には両親の姿だけが浮かんでいた。
その両親の姿が、先程の夫婦と重なる。嫌な想像ばかりが浮かぶのを、ヴィエラは一心不乱に走りながら何とか拭い去ろうと頭を振り続ける。
人間の兵士たちの目に入らないよう、炎と黒煙の影を縫うようにして、自分の家へ向かう。
村ごと焼かれた今、その火の手は我が家にまで及んでいた。
つい今朝まで日常を過ごしていた家の無惨な姿に息を呑む。
そして今にも焼け落ちそうな家の裏口から勢いよく二つの影が飛び出し、ヴィエラと激しくぶつかった。
「ヴィエラ! ああ、無事だったのね!」
「お母さんっ!」
母の腕に抱きしめられ、父の大きな手がヴィエラの背中を庇うように包み込む。
互いの無事を涙ながらに確かめ合ったのも束の間、父が険しい顔で周囲を見回した。
「ここはもう駄目だ。森の奥へ抜けるぞ!」
しかし、生き残りを狩り尽くそうとする兵士たちの包囲網は、すでに集落の裏手にまで回っていた。
森の暗がりから、再びガチャリ、ガチャリと死を告げる足音が近づいてくる。一行は追手から逃れるように夢中で駆け続けたが、やがてその足は絶望的な状況を前に止まることとなった。
そこは、切り立った高い崖の上だった。眼下には、雪解け水で増水した激しい濁流が渦巻いている。
そして振り返れば、松明と武器を掲げた五、六人の兵士たちが、逃げ場を失った家族を半円状に取り囲んでいた。
「ふはっ、魔族のガキだ。高く売れそうだな」
「親は殺せ。手間はかけさせんなよ」
兜の奥から、下衆な笑い声が漏れる。
迫り来る冷たい刃と、魔法使いと思しき男の杖の先に灯る不吉な赤い光。
絶対的な死の恐怖を前に、ヴィエラは両手で頭を覆い、固く目を閉じることしかできなかった。
直後、爆発的な熱波と共に、肉が引き裂かれるおぞましい音が響いた。
「あ……ああぁぁぁッ!!」
全身を貫いたのは、火炎による凄まじい激痛だった。
悲鳴を上げて見開かれたヴィエラの視界に映ったのは、自身の前に立ち塞がり、全身に無数の刃を受けながらもヴィエラを庇い続ける両親の姿だった。
放たれた炎の魔法の熱波は両親の身体を躱してヴィエラの背中を容赦なく焼き焦がしたが、致命的な刃の直撃だけは、二人の肉の盾が防いでくれていたのだ。
「お父さんッ! お母さんッ!」
すでに二人の身体はボロボロで、子どもの目にもそれが致命的な傷であることは明らかだった。
崩れ落ちそうになる身体を必死に支えながら、血に染まった母親が振り返る。
その瞳は、激痛に泣き叫ぶヴィエラの手に、いまだしっかりと握りしめられている泥だらけの青い花に向けられていた。
「……そのお花、とっても……綺麗ね」
「お母さん、やだっ、死なないで……っ!」
ヴィエラは泣きじゃくりながら、血まみれになった母の身体にしがみつこうとした。しかし、母はその血に濡れた震える両手で、ヴィエラの小さな肩をしっかりと掴んだ。
「泣かないで、ヴィエラ……。あなたは、どこへ行っても……そのお花みたいに、綺麗に咲きなさい。……生きて」
それが、最期の言葉だった。
優しい笑顔を浮かべたまま、母はヴィエラの胸を崖の下へと押し退けた。
ふわりと、足裏から地面の感触が消える。
無重力に捕らわれた身体が、夜の闇の中を真っ逆さまに落ちていく。
風が耳元で轟音を立てて吹き荒れる中、ヴィエラの視界だけが、まるで時間が引き伸ばされたかのように恐ろしいほどの鮮明さを持っていた。
遠ざかっていく崖の縁。
燃え盛る炎を背にして立つ、銀色の甲冑を着た『ムンガ』たち。
そして、自分を逃がすために最後まで立ち塞がっていた愛する両親の背中に、無慈悲な剣と斧が、深々と振り下ろされる光景。
二人の身体から赤い飛沫が舞い上がり、糸が切れたように崩れ落ちていく様を、ヴィエラはただ瞬き一つできずに見つめ続けていた。
「やだっ!! ああ……あああああっ!!」
喉が裂けるほどの絶叫は、直後に訪れた強烈な衝撃と、冷たく暗い水音によって掻き消された。
雪解け水で増水した激しい濁流が、容赦なくヴィエラの身体を飲み込む。
背中を焼く火傷の耐え難い熱と、肺まで凍りつくような川の冷たさが、同時に彼女の神経をめちゃくちゃに引き裂いた。
息ができない。どこが水面で、どこが川底なのかも分からない。ただ暗黒の渦の中で身体を弄ばれながら、ヴィエラの意識は急速に薄れていく。
泥だらけになっても決して手放さなかったあの青い花が、水流に飲まれて指先からすり抜けていったのを最後に、彼女の世界は完全に暗転した。
◇
——それは、幾つもの偶然が重なった奇跡だった。
激しい水流は、彼女の小さな身体を岩に打ち付けることなく下流へと運び続けた。
そして夜が明け、朝の冷たい光が差し込む頃。魔族領の中心部へと続く街道沿いの川岸に打ち上げられていた瀕死の彼女を、魔王城に仕える貴族の馬車が通りかかり、拾い上げたのだ。
揺れる荷馬車の床。温かい毛布の感触。
誰かが自分の背中に薬を塗り、包帯を巻いてくれているおぼろげな記憶。
熱にうなされ、幾度も生死の境を彷徨いながら、ヴィエラがようやくはっきりとした意識を取り戻したのは、それから数日後のことだった。
「…………」
ゆっくりと目を開けると、そこには見知らぬ白い天井があった。
鼻を突く焦げ臭い煙の匂いはなく、清潔なシーツの糊の香りと、微かな薬草の匂いだけが漂っている。
柔らかな陽射しが差し込む静かな部屋。どこかの屋敷の、手入れの行き届いた客室のようだった。
生きている。
その事実を実感した瞬間、忘れていた背中の火傷の激痛が、ヴィエラの脳を激しく打った。
「あ……ぅっ……」
痛みに顔をゆがめ、寝返りを打とうとした彼女の脳裏に、あの日の一連の記憶が鮮烈な色彩を伴って蘇る。
燃え落ちる家々。
泣き叫ぶ子どもを切り捨てる、角のないムンガたち。
自分を庇い、炎と刃を浴びた父の背中。
最期まで綺麗に咲きなさいと微笑んで、自分を崖から突き落とした母の血まみれの手。
ヴィエラは、包帯の巻かれた小さな手で、清潔なシーツを力任せに握りしめた。
助かった。
だが、ヴィエラの胸中を埋めるのは安堵とは対極の——家族のいない虚無ばかりだった。
どんなに泣き叫んでも、もう二度と、父が大きな手で頭を撫でてくれることはない。母が温かい指先で髪を梳いてくれることもない。
あの穏やかで優しかった世界は、たった一夜にして、理不尽な暴力によって永遠に奪い去られたのだ。
「……あ、ああぁ……」
掠れた声が漏れる。それは悲しみの嗚咽ではなかった。
ヴィエラの空虚だった瞳に、どす黒い感情がゆっくりと滲んでいく。
背中に張り付いた消えることのない火傷の痛み。それは、自分のすべてを理不尽に奪い去ったムンガ——人間と呼ばれる存在への、決して消えることのない呪いだった。




