第15話 ②
記憶の中の故郷は、いつも優しい木漏れ日と、穏やかな土の匂いに包まれていた。
魔族領という響きから人間たちが想像するような、血と暴力が支配する荒涼とした不毛の地ではない。深い森の奥底、外界の喧騒から切り離されたようにひっそりと佇むその集落は、四季の移ろいが美しく、湧き水が豊かに流れる静かな場所だった。
朝靄が晴れる頃、石と木で組まれた小さな家々の煙突からは、朝餉の支度をする白い煙が一斉に立ち上る。
香ばしく焼けた麦のパンと、森で採れた茸の温かい汁物の匂い。
まだ幼かったヴィエラにとって、世界はその森と集落がすべてであった。
「ヴィエラ、こっちへいらっしゃい」
日差しの差し込む窓辺で、母親の柔らかい声に呼ばれる。
駆け寄ってその膝の前にちょこんと座ると、母は使い込まれた滑らかな木櫛で、ヴィエラの長い髪を優しく梳いてくれた。
「今日もいいお天気ね。森へ遊びに行くの?」
「うん! 今日はね、丘の向こうまで木の実を摘みに行くの」
「そう。でも、あまり遠くへ行っては駄目よ。日が暮れる前に帰らないと、森の奥から『ムンガ』が出てきちゃうからね」
「ムンガ?」
ヴィエラが小首を傾げると、母はわざとらしいほどに恐ろしげな声色を作って見せた。
「ええ。角を持たない恐ろしいバケモノよ。暗くなると、迷子になった悪い子の角を奪いに山から下りてくるの」
「きゃあ、やだ! 食べられちゃう!」
「ふふっ、だからお父さんが帰ってくる前に、ちゃんとお家に帰ってくるのよ」
髪を梳く母の指先は、いつも魔法のように温かかった。
ヴィエラはその心地よい感触に目を細め、子猫のように喉を鳴らしながら、母の匂いを胸いっぱいに吸い込む。それは、陽に干したシーツのような、安心しきった匂いだった。
集落に住む魔族たちは、みな一様に慎ましく生きていた。
魔族と言えど天変地異を引き起こすような強大な魔力を持つ者はここにはおらず、大半は森の恵みに頼って細々と暮らしている。
そこに争いはなく、ただ互いに助け合いながら、静かに日々を営んでいた。
昼下がり、森で仲間たちと駆け回り、泥だらけになって笑い合う。
夕暮れ時になれば、畑仕事から帰ってきた父親が、大きな手でヴィエラの頭を撫でながら、太く穏やかな声で「ただいま」と笑う。
夜は家族で小さな食卓を囲み、暖炉の火の温もりに包まれながら、他愛のない会話に花を咲かせた。
暖炉の中でパチパチとはぜる赤い炎。
それはヴィエラにとって、家族の団欒を象徴する、世界で最も優しく、温かい光だった。揺らめく炎を眺めながら、母に絵本を読んでもらい、やがて父親の腕の中でまどろみへと落ちていく。
ある日のこと。
ヴィエラは森の奥の秘密の場所で見つけた、星のように青い小さな花を両手いっぱいに抱え、得意げに母のもとへ走った。
「お母さん、見て! すごく綺麗な花があったの!」
泥だらけの手で差し出されたそれを、母は少しも嫌がることなく受け取り、微笑んでヴィエラの髪に編み込んでくれた。
「まあ、本当に綺麗。……ヴィエラの髪によく似合っているわ」
磨き上げられた手鏡に映る自分と、その後ろで優しく微笑む母の顔。
ヴィエラは嬉しくて、誇らしくて、その青い花が枯れてしまうまで、ずっと宝物のように髪に飾っていた。
明日も、明後日も、季節が巡っても。
この暖かく穏やかな日々が、当たり前のように続いていく。
誰もがそう信じて疑わず、明日への希望を抱いて夜の眠りについていた。




