第15話 ①
凍てつくような北への過酷な旅路の中で、山間にひっそりと湯煙を上げるその温泉街は、まるで雪原に落ちた小さな陽だまりのようだった。
硫黄の匂いが立ち込める湯の街に辿り着いた時、一行の間に安堵の吐息が漏れたのは無理もないことだった。
宿に着くなりリゼ様は「疲れたぁー」と早々に部屋に向かってしまい、ミーシャはそれを追いかけていく。
一方のルミィは宿の独特な内装に目を引かれ、同じく普段に似合わず不思議そうな顔をしていたヴィエラと共に屋内を探検していた。
何しろ、かつて東方を旅した商人が興した街だとかで、宿の設備はどれも物珍しい。
廊下を歩けば、壁の代わりに木枠へ薄く透き通る白い紙を張った引き戸が並び、外の光を優しく和らげて室内に落としている。硝子窓とは違う、どこか温かみのある明かりだ。
通路の随所には、墨一色で描かれた異国の風景画が掛けられ、その下にはわざと歪な形に焼かれたであろう陶器に、名も知らぬ野の花が不規則な美しさで生けられていた。
「奇妙な造りね。この紙の扉、少し力を入れたらすぐに破れてしまいそうじゃない」
ヴィエラが引き戸の木枠を指先でなぞりながら小声でこぼす。
その警戒するような、それでいて興味を惹きつけられているような横顔は、ルミィと同じようにこの異国情緒あふれる空間に見入っている証拠だった。
一通り宿を巡り、自分たちの泊まる部屋に入った途端、嗅ぎ慣れない香りとともに不思議な床が目に入った。
ふわりと鼻をくすぐったのは、陽に干した若い草のような、青く懐かしい匂い。床には薄緑色をした四角い敷物が、隙間なく敷き詰められている。
先に部屋へ到着していたリゼ様はなぜかその床の上にうつ伏せになり、「タタミだ……」などと聞いたことのない単語を呟きながら、恍惚とした表情で頬をすりすりと擦りつけている。
靴を脱いで上がる決まりだというその床は、絨毯よりも固く、それでいて木の板張りにはない独特の弾力があり、歩くたびに足の裏へ心地よい感触を伝えてきた。
部屋の中央には不自然なほど背の低い木机が置かれ、その周囲にはふかふかとした四角い布地のクッションが並べられている。
椅子がないことに戸惑いながらも、見よう見まねでそのクッションに腰を下ろしてみると、張り詰めていた旅の疲労がじんわりと吸い取られていくような不思議な安らぎがあった。
その後もしばらく休んでいると、部屋の扉をノックする音とともに給仕が現れ、温かい食事をテーブルの上に並べていった。
食欲をそそる湯気と香りに、早速四人は目を輝かせる。久々に立派な食事を囲む一同の空気は、ここ数日の張り詰めたものから一転して和やかなものになっていた。莉子たちとの他愛のない会話や、いつものようにヴィエラと交わした憎まれ口すらも、今はただ心地よい。
過酷な現実や使命をほんの少しだけ忘れさせてくれる、束の間の休息。ルミィもまた、冷え切った身体と心がゆっくりと温められていくのを感じていた。
夜も更けた頃。
ルミィは一人、宿が誇る大浴場へと足を運んでいた。
広々とした石造りの浴場は、もう他の客の姿もなく、静まり返っている。しんしんと冷える外気とは対照的に、室内は分厚く白い湯気で満たされ、湯口からあふれる湯の音だけが柔らかく反響していた。
掛け湯を済ませて、そっと身を沈める。
「ふぅ……」
思わず漏れた声は、湯気の中に溶けて消えた。冷えた身体に、じんわりと熱が染み込んでいく。
心地よさに目を閉じかけた、その時だった。
分厚い湯煙の向こう側、浴場の少し離れた奥まった場所に、人影があることに気がついた。
長い髪を湯につからないよう無造作に束ね、背中を向けて湯船の縁に腕を預けているその影。滑らかな肩の曲線と、どこか凛とした佇まいで、それがヴィエラであることはすぐに分かった。
(ヴィエラさん……)
声をかけようとルミィが少し身を乗り出した瞬間——ふと、風の悪戯のように湯気が薄れ、彼女の背中が露わになった。
「——え」
ルミィは、掛けようとした言葉を飲み込み、そのまま息を呑んで硬直した。
ヴィエラの背中。本来ならば透き通るように美しいはずのその肌の、肩甲骨から腰のあたりにかけて——痛ましいほどに広範囲な、巨大な火傷の痕が刻み込まれていたのだ。
それは、かすり傷や戦闘で受けたような生易しいものではない。皮膚がひきつり、かつてそこを舐め尽くした炎の恐ろしい熱量を、今なお雄弁に物語っているような、酷く生々しい痕。
いつも涼しい顔をして、皮肉や憎まれ口ばかり叩いている彼女。
魔族としての強大な力を持ち、どんな時でも隙を見せなかった、あのヴィエラが。
彼女の服の下に、あんな痛ましい過去の爪痕が隠されていたなんて、ルミィは想像すらしていなかった。
あまりの痛ましさに、目を逸らすことすらできず見つめてしまっていたルミィの視線に、勘の良いヴィエラが気づかないはずもなかった。
ちゃぷん、と微かな水音を立てて、ヴィエラがゆっくりと肩越しに振り返る。
目が合った。
ルミィの肩がびくりと跳ねる。見られてはならないものを見てしまった。いつもの彼女なら、鋭い言葉で威嚇してくるか、あるいはすぐに湯の中に身を隠すか、背を向けて立ち去ってしまうだろう。
ごめんなさい、と謝らなければ。そう思ってルミィが震える唇を開きかけた、その時。
ヴィエラは逃げることも、傷を隠すこともしなかった。
着飾る衣服も、種族としての立場も、すべてを脱ぎ捨てたこの温かい湯の中の無防備さが、彼女の心に分厚く張られた氷を、ほんの少しだけ融かしていたのかもしれない。
「そのうちね、貴方には聞いてほしいと思っていたの」
「えっ……」
それは、いつもの棘のある声ではなく、不釣り合いなほど凪いだ静かな声。
ヴィエラは自らを覆う火傷の痕に触れることもせず、ただ静かに、揺れる水面へと視線を落とした。
「……昔、故郷が焼かれてね」
その言葉の裏にどのような感情が渦巻いているのか、彼女の表情からは何も読み取れない。
遠い過去を見つめているような、その瞳はただただ空虚なものだった。




