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第14話 ⑥

「これは、一体……」


 尋常ではない有様に、さしもの陽菜でさえ顔をしかめる。そしてその血溜まりの中に、微かに光を反射する小さな金属片を見つけた。

 慎重に手を伸ばし拾い上げると、それは複雑な意匠が彫り込まれた真鍮の鍵だった。

 血に濡れた表面には魔力の残滓を帯びた装飾が施されており、陽菜の首を締め付けている鉄の枷と手元の鍵の間に、目に見えない微弱な繋がりが感じられる。


 間違いない。これは魔力封印の拘束具を解くための鍵だ。

 ということは、やはりこの血溜まりの主は——。

 あの下劣な笑いを浮かべていた男の末路になど何の感慨も湧かなかったが、いい加減この首の枷にも辟易してしたところだ。ここで鍵が見つかったのはこの上ない幸運だった。


 慎重に鍵穴へ差し込み静かに回すと、カチャ、と無機質な音ともに錠が外れた。

 支えを失った重い鉄の輪が泥濘の中へと落ちる。


 すると間もなく、凍てついた大地が春の訪れと共に一斉に芽吹くように、陽菜の体内に圧倒的な魔力の奔流が蘇った。

 失われていた体温が急速に戻り、指先まで力が漲っていく。周囲の炎の熱さも、空気を震わせる思念体の威圧感も、もはや彼女の精神を縛る枷にはなり得なかった。


「アルトくん、こっちを向いて」


 陽菜はアルトの首にはめられていた枷も素早く外し、その手を取った。


「よし、これで大丈夫。……さて、アルトくん、どうする? お母さんは魔族領へ連れて行かれたみたいだけど」


 生きている可能性なんて、無いに等しい。

 それでも、アルトの答えは何となく分かっていた。


「変わらないよ。僕はそのためにここまで来たんだ」

「……だよね。それならまずは居場所を突き止めないと」

「あ、そっか。でもどうしたら……」

「ここの管理官は、奴隷一人一人をどこへ送るかを決める権限があった。ってことは——」


 潰れたテントの中には夥しい量の書類が散乱している。

 手近な一枚を拾い上げてみると、鉱員の名簿が記されていた。


「やっぱり。多分この書類の山のどこかに、お母さんの仕向地が書かれたリストがあるんだと思う」

「こ、このどこかに……」


 アルトの顔が青ざめる。

 だが、それも致し方ないと思わせるほど、積み重なった山は巨大だった。紙の枚数は軽く見積もっても千枚は下らない。


 陽菜は目の前の書類の束に近づくと、黙々と一枚一枚中身を確認し始めた。


「お姉さん……ううん、そうだよね。これくらいでへこたれてちゃダメだ」


 その様子にアルトも覚悟を決めたのか、大きく息を吐く。そして一枚の紙を取って、


「そうだった、僕、文字が読めないんだった……」


 と、文字通り希望が潰えたという表情を浮かべた。

 コロコロと移り変わる彼の様子に思わず陽菜は口元を綻ばせる。


「ふふっ、いいよ。探すのは任せて。その代わり、散らばった紙をまとめて並べてくれるかな?」

「——! うんっ」


 陽菜の頼みに、アルトは分かりやすく目を輝かせた。

 自分も頼りにされている。出来ることがある。そのことがきっと嬉しいのだろう。


 しかし、探せど探せど、母親の名前は見つからない。


 今まで見つけた中には十五年前の記録すら残っているほど、リストの数は膨大だった。

 格好つけてアルトに啖呵を切ったものの、これでは埒が明かない。一体どうすれば——。


 そんな風に考えているときだった。


「手助けが必要かい」


 テントの入口からは、直前まで聞いていた男性の声。

 同じ牢に囚われていたあの老人が、そこに立っていた。

 それだけではない。他にも一緒に解放したはずのエルフや獣人たちが彼に同行している。


「ど、どうして貴方達がっ! せっかく遠くへ逃げる機会なのに」

「もちろん片がついたら逃げるさ。だが、恩人の窮地を見捨てるほど、落ちぶれちゃいないよ」


 老人は書類の束を一瞥した後、アルトに向かって微笑んだ。


「探し人の名前を教えてくれ。お前の母の名を」


 アルトは驚きと嬉しさの織り交ざったような顔で目を潤ませて、そして力強く頷いた。


「ルシア……、ルシアだよっ!」

「希望の光か、良い名だな。……よし、お前ら、このクソったれな地獄での最後の仕事だぞ! 気張ってけよ!」


 そのやつれた風貌のどこに活力があったのかというほどの力強い声が張り上げられる。

 「おう!」と後続の元奴隷たちも続くと、皆一斉に書類の確認をし始めた。

 

 いつ死ぬかとも知れぬ恐怖に怯え、先のない絶望に心を枯らしていた人々。

 脱獄を果たした千載一遇の好機、我先にと一瞬でも早く遠くへ逃げたいはずだ。

 それなのに、こうしてアルトの母親を探す手伝いをしてくれている皆の瞳にはかつてないほどの光が宿り、苦しみの中にもどこか希望を見出すような明るさを湛えていた。


 そして——。

 

「……おい、これじゃないか!」


 ふいに、獣人の男が声を上げた。

 彼の手には、赤黒い血の飛沫がこびりついた一枚の羊皮紙が握られている。陽菜とアルトは弾かれたように駆け寄った。

 紙面にはルシアという女性の名前と、仕向先の魔族領の土地が記されている。


 アルトは待ちきれないと言った風に声を上げた。


「一体どこへ、お母さんはどこへ送られたの!?」


 すがりつくような目で羊皮紙を見つめる。

 だが、その送り先を読み上げた獣人の男の顔は、ひどく強張っていた。


「仕向地は北の魔族領——幻月城『ル・シエン』」

「幻月城……?」

「ああ、そう書いてある。爺さん、分かるか?」

「いや、さすがに魔族領のことまでは分からん。だが、わざわざ人間の、それも奴隷を買うようなやつだ。まともな相手ではないだろうな」


 陽菜は顎に手を当てながら「城……」と呟いていた。


「お姉さん、何か分かる?」

「ええ。魔族の社会は人間と同じか、あるいはそれ以上に厳格な階級社会よ。血筋や名を何よりも重んじるし、支配する領地の規模がそのまま権力に直結するの」


 陽菜は、かつて自分が君臨していた世界の構造を脳裏に思い描きながら、静かに言葉を継いだ。


「だから、単なる館や砦ではなく、固有の名を持つ城を構えることが許されるのは、ごく一握りの特権階級だけ。公爵や侯爵といった最上位の貴族か、あるいは魔王に直接仕える有力者——四天王と呼ばれる大魔族よ。いずれにせよ、莫大な富と強大な私兵を抱えた大物ね」

「そんなすごい人が、お母さんを……?」

「ええ。それも、わざわざ国境を越えてね……お爺さんの言う通り、間違いなく悪趣味で、まともな相手じゃない」

 

 アルトは震える身体を押さえつけるように、ギュッと拳を握りしめている。

 陽菜はアルトの正面に立つと、彼の両肩に手を置き、その瞳を覗き込んだ。


「大丈夫、言ったでしょ。私が守るから」

「……うん、信じてるよ」


 陽菜は小さく笑みをこぼすと、力強く頷いた。

 もう、逃げないと決めたのだ。どんな残酷な現実が待っていようと、この子の手を引いて最後まで見届ける。


「ありがとう、みんな。この恩は一生忘れないよ」

「止めても無駄なんだろうな。……気をつけな、あっちの北の山を越えたら、もうそこは魔族領だ」

「うん。絶対にアルトくんのお母さんを——ルシアさんを見つけてみせる」


 老人が深く頷き、他の者たちも陽菜とアルトに向けて無言のエールを送る。

 

 互いの無事を祈るわずかな言葉を交わし、彼らとはそこで別の道へ歩み出した。

 陽菜たちとは真逆の南へ向かう彼らの背中は、これからの未来に向けた期待と緊張に満ちているように見えた。彼らもまた、自分たちの生き残るための戦いを始めなければならないのだ。


「急ごう。今のうちに山を越えるよ」

「うん!」


 魔力を取り戻し、真の意味での自由を得た陽菜の足取りは、先ほどまでの重さが嘘のように軽やかだった。

 背後で街を破壊し尽くす異形の怪物と、炎に包まれる人間の欲望の残骸を一瞥もすることなく。

 二人は夜の闇に紛れ、さらなる深淵——アルトの母親が連れ去られたという、北の魔族領へ向けて真っ直ぐに駆け出していった。

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