第14話 ⑤
外の異変は、分厚い石壁に囲まれた西の収容施設にも確実に伝播していた。
地鳴りのような重い振動が、冷たい石の床を通して陽菜たちの足裏へビリビリと伝わってくる。
何が起きているのかは分からない。だが、鉄格子越しに見える通路の篝火が激しく揺れ、外からは人々の悲鳴と、何かが砕け散るような轟音が絶え間なく響いていた。
「おい、外で火の手が上がってるぞ!」
「化け物だ! 見張り台が潰された、逃げろ!!」
通路の奥から聞こえてきたのは、奴隷たちの牢を見張っていた看守たちの叫び声だった。
慌ただしい足音が幾つも通り過ぎ、やがて施設の扉が乱暴に開け放たれる音と共に、見張りたちの気配は完全に消え去った。
牢の中の奴隷たちが、不安げにざわめき始める。
陽菜は静かに立ち上がると、鉄格子へと近づき、外の通路に誰もいないことを確認した。
「……よーし」
ぽつりと呟き、陽菜は鉄の格子に目を向けた。
雪の日の宿屋で呟いたのと同じ陽菜の声に、アルトは「ん?」と振り返る。どことなく白い目は、また変なことをするつもりじゃないだろうな、と言外に訴えてくるようだ。
首にはめられた拘束具のせいで、体内には一滴の魔力も巡っていない。加えて、両手は未だに厳重に縄で縛られたままだ。だが、彼女の本来の肉体は、魔力の有無に関わらず、人間とは根本的に異なる密度と強度を誇っていた。
「アルトくん、少しだけ後ろに下がってて」
陽菜はそう告げると、信じられないことに、大人の腕ほどもある太い鉄格子に、ためらいなく自身の顔を近づけた。
そして——あぐっ、と。
まるで硬めのパンでも齧るかのように、鉄の棒に直接噛み付いた。
メキ、ガキィンッ!
およそ年若い少女が出すとは思えない破壊の音が牢の中に響き渡る。陽菜がそのまま無造作に首を捻ると、決して人力では曲がるはずのない強固な鉄格子が、まるで飴細工のようにぐにゃりと歪み、無惨に噛み千切られた。
「ぺっ……。うええ、まっず……。鉄ってこんな味なんだ」
口内に残った鉄の欠片を冷たい床に吐き出し、折れて鋭利になった格子の断面に背中側——自身の手首を縛る縄を押し当てて、無理やり引き裂いた。
そして陽菜は何事もなかったかのようにひしゃげた鉄格子の隙間を両手でこじ開けると、人が一人十分に通り抜けられるだけの穴がぽっかりと空く。
「……え?」
「…………」
背後を振り返ると、アルトも、先ほどまで絶望を語っていた老人も、同室にいた奴隷たち全員が目を丸くして完全に固まっていた。
恐怖と混乱が渦巻いていたはずの空間に、形容しがたい奇妙な沈黙が流れる。
「お姉さん……」
「なんでそんな憐れむような目を向けるの? ここ、私を褒めるところじゃないの?」
この一件からしばらくの間、陽菜を見るアルトの目が少しだけ生温かくなったのだが、それはまた別の話である。
「さてと。扉は開けたよ」
陽菜は気を取り直すように、暗闇の中でうずくまる人々へ向けて静かに告げた。
「外はたぶん、ひどい混乱状態になってる。だから全員が無事に逃げ切れるかは、私にも保証できない。……でも、ここに残って死を待つか、それとも自分の足で外へ出るかは、今なら選べるよ」
それは、陽菜が彼らに与えられる唯一の機会だった。
全員の命を背負って安全な場所まで送り届けるような無責任な約束はできない。だが、せめて彼らに自由を——生きてこの地獄を抜け出すための可能性を与えたかった。
老人が、震える手で壁をつき、ゆっくりと立ち上がった。そして陽菜の目をじっと見つめ、静かに一礼した。
その目には、先ほどまでの濁った諦念とは違う、微かな光が宿っていた。それに呼応するように、他の奴隷たちも次々と立ち上がり、開かれた鉄格子の隙間から、我先にと通路へ飛び出していく。
「行こう、アルトくん」
「う、うん……!」
陽菜はアルトの手を引き、奴隷たちの波に紛れるようにして収容施設の外へ駆け出した。
一歩外へ出ると、そこはすでに真昼のように明るかった。
燃え盛る炎がバラック群を飲み込み、熱風が吹雪の冷気を強引に掻き消している。空気を満たしているのは、木材が爆ぜる音と、人々の悲鳴、そして——。
「アアァァァァァァァァァァァ…………」
遠くの夜空を覆い隠すようにそびえ立つ、巨大な黒い影。
それがゆっくりと動くたびに、絶望の底から響いてくるような不快な振動音が大気を震わせた。
「何なのよ、あれ……! 」
影の正体が何なのか、誰が呼び出したものなのかは分からない。だが、あの悍ましい塊には絶対に関わってはいけないと、陽菜の本能が警鐘を鳴らしていた。
「お姉さん、あっち!」
アルトに引かれるまま、広場を抜けて街の北側へと急ぐ。
その途中、陽菜の足がふと止まった。
そこは、二人が最初に連行された広場の中心。監督官がふんぞり返っていたはずの巨大なテントがあった場所だ。
しかし、テントはもはや原型を留めていなかった。上から途方もない質量で踏み潰されたように完全にひしゃげ、泥雪の上に巨大な足跡だけを残している。
そしてその中心には、布の残骸と混ざり合うようにして、おびただしい量の赤黒い染みが広がっていた。




