第14話 ①
思考の海に深く沈んでいた陽菜の身体が、半ば反射的に動いた。
突きつけられた刃物の気配に、首筋の皮膚が裂けるよりも早く上体を沈め、鋭い切っ先を滑るように躱す。そのまま雪を蹴り、背後の襲撃者との距離を刹那の内に取った。
間髪入れず、反撃のために莫大な魔力を練り上げる。
だが、身構えた陽菜の動きは、振り返った瞬間に完全に凍りついた。
「……あっ」
視線の先。ほんの数歩離れた場所で、アルトが別の男に背後から羽交い締めにされていた。
男の太い腕が少年の華奢な身体を拘束し、その細い首元には短剣が深く食い込んでいる。
「くくく、動くなよ。少しでも妙な真似をすれば、このガキの喉笛を掻き切るぞ」
男たちが纏うのは、先程見下ろしていた広場にもいた奴隷たちの管理役と思しき人間たちと同じ衣服であった。
雪景色に溶け込むような灰色の外套は、かつて神官クラウスが身につけていたものと似ているようにも思えるが、彼らの外套はそれよりも遥かに動きやすさに特化した造りだ。
迂闊だった——雪が周りの音を隠す中、陽菜自身も考え事をしていたとはいえ、彼女の感知すら欺くほどの気配の殺し方。
陽菜への初撃だけでなく、アルトをすかさず捕らえた判断といい、この人間たちは明らかに荒事慣れしている。
男が短剣をわずかに押し当てると、アルトの白い肌に一筋の赤い線が走り、血の雫が雪へと落ちた。
アルトは恐怖で見開いた瞳からポロポロと涙をこぼしながらも、陽菜の足手まといにならないよう、必死に声を殺して震えている。
陽菜の足元で、雪に落ちた影がどろりと濃くなった。
魔王としての底なしの力が、主の感情に呼応して暴発寸前まで膨れ上がる。男たちの頭を、あるいは心臓を、魔法で一瞬にして吹き飛ばすことは容易い。
——だが、その一瞬の間に、絶命する男の腕が痙攣して刃が動いたら?
いや、それ以前の問題だ。陽菜は自身の震える指先を見た。
雪原でのほんの些細な一幕。あのとき、アルトの凍えた手を温めようとしただけの小さな炎が、天を焦がすほどの巨大な火柱になったのだ。
陽菜の魔法は良くも悪くも規格外だ。何とも情けない話だが、城壁ごと軍勢を灰にするような殲滅しか知らない自分が、アルトの首に当てられたナイフを握る男の腕だけを、寸分の狂いもなく狙い撃つことなどできるのか。
少しでも出力調整を誤れば、自分はアルトの小さな身体ごと、この丘を丸ごと吹き飛ばしてしまう。
圧倒的な力を持っているにも関わらず、陽菜は完全に手足を封じられていた。
「……チッ。ただの小娘かと思ったが、厄介な魔力持ちか。おい、枷をかけろ」
陽菜から立ち昇る尋常ではない気配を察したのか、襲撃者の一人が、雪の上に重々しい鉄の輪を投げ捨てた。
表面にびっしりと呪文が刻み込まれた、魔力封印の拘束具。
「自分で首につけろ。さもなきゃ、このガキの指を一本ずつ切り落としていく」
陽菜は、唇を噛みしめた。
力なら、誰にも負けないほどにある。この山を一つ消し去ることだってできる。
けれど、目の前で刃を突きつけられている、たった一人の小さな子供を安全に救い出すことができない。自らの力の強大さと、それを御しきれない不器用さが、陽菜に底知れない無力感と屈辱を突きつけていた。
(……ごめんね、アルトくん)
陽菜は静かに雪の上に膝をつき、落ちていた冷たい鉄の輪を拾い上げた。
そして、躊躇うことなく自身の首に当て、錠を押し込む。
カチャン、という無機質な金属音が鳴った。
その瞬間、陽菜の裡で渦巻いていた広大な魔力の海が、分厚い鉛の蓋をされたように完全に沈黙する。身体から熱が急速に奪われ、ただの無力な少女の肉体へと引き戻される重苦しい感覚。
「お姉、さん……っ」
「泣かないで、アルトくん。大丈夫だから」
さらに両腕も拘束された陽菜を見て、ついにアルトが嗚咽を漏らす。陽菜は彼を安心させるように、わざとらしく微笑んでみせた。
「ほう、見ろよ。コイツも魔族……いや、にしては目の赤色が少し違うな。もしかして半魔か?」
取り巻きの別の男がしげしげとアルトを見回して、口元を吊り上げる。
そして陽菜に付けさせたものと同じ拘束具を、アルトの首にも括り付けた。
「よし、立て。お前ら、なかなかいい値段で売れそうだ」
男の一人が陽菜の腕を乱暴に掴み上げ、雪の積もる斜面へと引き立てる。
先ほどまで丘の上から俯瞰して見下ろしていた、命がすり潰される地獄の底。陽菜とアルトは一切の抵抗を奪われた姿のまま、冷たい風の吹くぬかるんだ通りへと連行されていった。




