第13話 ⑥
パチッ。
大きく薪が爆ぜる音で、陽菜はハッと息を呑み、現実へと引き戻された。
目の前にあるのは、スマホのライトではなく、かまどで燃える赤い炎。
ベッドの上では、体温を分け合った親友ではなく、小さな少年が規則正しく胸を上下させている。
(莉子ちゃん……)
あの時、私の冷たさを「半分こすればいい」と笑って受け入れてくれた彼女。
そんな彼女の温もりから、自分勝手な理由をつけて手を離し、暗闇の中に一人残して姿を消したのは、他でもない陽菜自身なのだ。
今になって、都合よくあのぬるま湯のような日々の残り香に縋ろうだなんて、どれだけ身勝手なのだろう。
陽菜は両手で顔を覆い、膝の間に深く顔を沈めた。
痛いほどの喪失感と罪悪感が、胸を内側から掻き毟る。
けれど、立ち止まるわけにはいかない。
陽菜はゆっくりと顔を上げ、穏やかな寝息を立てるアルトを見つめた。
この手に残った罪の重さも、彼女を裏切ったという後悔も、一生消えることはない。だとしたら、せめて今、自分の隣にいるこの命だけは、絶対に守り抜く。
「……ごめんね、莉子ちゃん」
炎の爆ぜる音に紛れさせたその謝罪は、誰の耳にも届くことなく、冷たい石の壁に吸い込まれて消えた。
陽菜は静かに、けれど確かな覚悟を胸に宿し、吹雪の吹き荒れる夜明けを待ち続けた。
◇
吹雪の夜を越え、そこからいくつかの街を越えた。
北へ、北へ。
白銀の世界を行く二人は次第に息苦しさを感じ始め、自身らがいつの間にか山岳地帯へ踏み入れていることを知った。
そのまま歩を進め続け、一行はようやく目的の地へと到着する——。
「あれが……ゼノア鉱山」
灰色の雪原の向こうにそびえ立つ巨大な山容を見上げ、陽菜は思わず息を呑んだ。
本来ならば美しい雪を戴いているはずの雄大な山肌は、その荒々しい岩壁を剥き出しにしている。
そこかしこに開いた坑道の入口は不気味なほど黒々として、そこへ至る憐れな人間を飲み込まんとするかのようであった。
道中は手つかずの自然が広がるのみだったのに、目の前の山はあちこちに無骨な製錬所が建てられている。
それぞれの建物からは絶え間なくどす黒い煤煙が吐き出され、鉛色の空をさらに淀んだ色へと染めていた。
風に乗って鼻を突くのは、澄み切った冬の空気ではない。
硫黄の悪臭と、獣の脂、そして、むせ返るような血と鉄の匂い。空から舞い落ちる雪すらも、煙に燻されて薄汚れた灰のように変色し、重苦しく世界を覆い隠している。
その巨大な鉱山の麓には、へばりつくように不揃いな建物が密集して、街の如き外観を形成していた。
一帯を取り囲む防壁や、まともな門など存在しない。ただ無秩序に乱立するバラック小屋と、汚泥と雪が混じり合うぬかるんだ通りが、這い回る血管のように複雑に入り組んでいるだけだ。
街の手前、小高い丘を登ると、その全容が目の前に広がった。
陽菜とアルトはなるべく背を低くしてこっそりとその様子を伺う。すると、そこにはこれまでのどの街にも存在しなかった異質さがあった。
「……っ」
アルトが小さく悲鳴のような息を漏らし、震える手で陽菜の外套をきつく握りしめる。
彼の視線の先にあるものを見て、陽菜もまた言葉を失い、立ち尽くした。
街の中心にぽっかりと空いた、雪と汚泥にまみれた巨大な広場。
そこには、各地の奴隷商から買い叩かれたのであろう者たちが絶え間なく運び込まれていた。
人を人として扱う場などでは到底ない——それはさながら、命の荷受け場とでも呼ぶべき異様な光景であった。
ジャラリ、と冷たい金属音が響く。
広場にうずくまり、重い鎖で家畜のように数珠繋ぎにされているのは——人間、獣人、エルフ、そして魔族。
この凍えるような気候の中、彼らには碌な衣服も与えられず、みな黒く汚れきったボロ布を被っている。
「こいつは骨格がいいな。第三坑道へ放り込め。ひと月は持つだろう」
「そっちの女は魔族領への引き渡し予定になっているな。向こうの管轄へ回しておけ」
命を命としても扱わないような無機質な声が、陽菜の耳に届く。
丘上からは百メートルほど距離が離れているが、なまじ常人離れした聴力を持つ故に鮮明に聞き取れてしまうことが、今は恨めしくすら感じられる。
あるところでは監督官らしき人間の男が、鎖に繋がれた魔族の少年の口を無理やり開けさせ、検品でもするように歯並びを確認している。
かと思えば、別の場所では、力なく倒れ動かなくなった人間の男が、ゴミでも捨てるかのように死体運搬用の荷車へと放り投げられていた。
(何なの、これ……)
アルトと再会した宿場町で、商館の主から奴隷の情報を得たとき。
奴隷という存在は、陽菜が前世の記憶を取り戻す前から知識はあった。
しかし、実際に見たこともなければ、彼らがどのような扱いを受けているのかすら知りはしない。
それでも、かつての記憶を持つ陽菜は、今はどこか理性的にその状況に納得感すら抱いていた。
人間と魔族の間で取引——。
思えば、北方の魔族領との境で働いているという時点でその可能性に気づくべきだった。
だが、これはあまりにも……邪悪すぎる。
まだ魔王として城に君臨していた頃、きっと奴隷という存在をどこかで知り得たはずなのに。
陽菜がいた大陸は今いる場所とは違う場所だ。しかし奴隷と呼ばれる身分の人々が受ける扱いが、元いた大陸で殊更良好だったとは考えにくい。結局はこのような過酷な扱いを受けていたのではないか。
というのも、信じがたいことに——陽菜は奴隷がどのような暮らしを強要されているかなど全く知らなかった。
(おかしい)
王として大陸を統治していたはずなのに、これだけの下劣な経済活動に全く関与しないということがあり得るのか?
いくら抜けているところがある陽菜とはいえ、それはあまりに不自然すぎることに思われた。
そう、むしろ、予め情報が意図的に隠蔽されていたと考える方がしっくり来るような……。
ふと、脳裏に引っかかる言葉があった。
あれは喫茶リリーにいた頃——ヴィエラたちが押しかけるように店にやってきたとき。
『親友だった二人が、勇者と魔王として生まれ直す。何十年も記憶を失っていたのに、殺し合いの最後にだけ思い出す。そんなこと、本当に偶然起きるものなのでしょうか』
偶然というには作為的すぎる一致。
もしこれが誰かによって仕組まれたことだとしたら——。
ぐるぐると思考が回り続けていた、その時だった。
「——大人しくしろ」
氷のように冷たい声が背後から響く。
同時に、陽菜の首筋に、ひんやりとした鋭利な刃物がピタリと押し当てられた。




