第13話 ⑤
パチッ、という薪の爆ぜる音が、ふいにカチッ、ジーー……という、古い電気ヒーターのくぐもった稼働音へとすり替わる。
薪の燻される香りは、いつの間にか、日に焼けた古い紙と埃っぽいカーテンの匂いへと変わっていた。
ここは日本。陽菜のかつて通っていた大学の一角、文学研究会の部室。
窓の外では、朝から降り始めた雪が記録的な大雪となり、灰色の空からひっきりなしに白い欠片を落とし続け、世界を真っ白に塗り潰している。
「あーあ。これはダメだわ。外大雪だよ……って、陽菜?」
「いやぁ、電車調べてたんだけど、全部止まってるみたい」
「まじかぁ。しばらくはここで待機かな……いつ帰れるんだろう」
こういう日に限って五限に授業が入っていた二人は、日中の課程の最後を告げるチャイムとともに雪空の下へ放り出され、仕方なくこの狭い部室に籠っていた。
ついさっきまではほんの少しチラつく程度の雪だったのに。
三限四限と部室にはまばらに人がいたが、その日の授業を消化し終えたサークルの学生たちはみんな早々に校外へ繰り出していった。
底冷えする部室の空気を温めているのは、足元に置かれた小さな電気ストーブだけ。
二人で一つのストーブの前に陣取り、身を寄せ合うようにして暖を取っていた、その時だった。
チカッ、チカ……。
外の猛吹雪が電線を揺らしているのか、天井の蛍光灯が数回明滅し——やがて、プツンという頼りない音と共に、部室は完全な暗闇に包まれた。
「げっ、停電?」
「ひええっ、えっ、やば、暗すぎ。怖い怖い怖い」
「おい、こらっ、くっつくな、危ないでしょ……あっつ! ちょ、ストーブ!!」
急な出来事に思わず隣の莉子に抱きついてしまったが、その拍子にどうやら目の前のストーブに身体が触れてしまったらしい。
直前まで稼働していた分、熱を持っていたのか。これは申し訳ないことをしてしまった。
「わあああ、ごめんごめん」
「まったく陽菜ったら……にしても暗すぎるわね。えっと、スマホは……」
暗がりの中で莉子が自身の荷物をまさぐる音がする。
そして「あったあった」と言いながらライトを付けると、暗闇の中でぽっかりと白い明かりが周囲を照らした。
その明かりがちょうど莉子の顔の下から照らす格好――つまり、怪談話をするときのような当たり方になる。
「ぷっ、顎やば」
「呪い殺すぞぉー……」
「きゃああ、あははは」
莉子は顔を照らし、精一杯の呪詛の声を上げながら、ぬーっと顔を近づけてきた。
すると、光に照らされ鼻の穴が強調された莉子の顔が、どこか悪戯を思いついた子供のようにパッと輝いた。
目の下にどす黒い影が広がり、むしろ今の表情が一番怖く見える。
「あっ、そういえば停電で思い出したけどさ。一度これ、食べてみたかったんだよねぇ」
スマホのライトが頼りなく照らす薄暗い部室の中。莉子がロッカーの奥から引っ張り出してきたのは、いつからそこにあったのかも分からない乾パンの缶詰だった。
乾パンとはいえ、それは防災用というよりも、誰かが悪ふざけで置いたという方がしっくり来る。
陽菜も存在は知っていたが、こんなところに放置されているような食品を食べてみようと思ったことはない。
「ええ……それ賞味期限大丈夫なの?」
「えーっとね、今年の五月だって」
「半年過ぎてるじゃねえか。やめときなよ」
間髪入れずに突っ込むと、莉子は「細かいことは気にしない!」と笑いながら、カパッと軽快な音を立ててプルトップの蓋を開けた。
二人は顔を寄せ合って、中を覗き込む。
暗いのもあるかもしれないが、見た目はほとんど変わらない——というか、陽菜にとってはこれが人生で初めての乾パンだったのだが、中身は想像通りの見た目であった。
よく見ると白い固形物も入っている。パッケージを見ると氷砂糖と書いてあった。
莉子は特に躊躇することもなく中から一枚摘み出すと、そのまま口へと放り込んだ。
「んー、水分欲しくなるね」
「だからやめとけって言ったのに……」
「ほら、陽菜も」
「ええ……」
ずいっと目の前に缶を突き出されて、陽菜は露骨に顔をしかめる。
思ったより油臭い……古くなって酸化してるんじゃないだろうか。
恐る恐る口に含んでみると、一瞬小麦の香ばしさが鼻を抜けた。
しかし、その直後口内の水分がどんどん吸われていき、味もしなくなっていく。
「なんか……紙粘土噛んでるみたい」
「紙粘土て! ぷっくくく……久々に聞いたなぁ、紙粘土。うん、確かに紙粘土だわ」
何がツボに入ったのか、いつになく笑い続けながらぽいぽいと次の乾パンを放り込んでいく莉子。
その様子に呆れながら息を吐くと、白い煙が暗闇に溶けていく。
いつの間にかストーブの熱も失われ、古い部屋は急速に冷えていった。
すると、莉子が不意に身を乗り出し、ブランケットの下で陽菜の左手をきゅっと両手で包み込んだ。
「陽菜、手、すっごく冷たいね」
「私が冷え性なのは知ってるでしょ。莉子ちゃんまで冷たくなっちゃうよ」
陽菜が身を引こうとするが、莉子は手を離さない。それどころか、その氷のように冷え切った陽菜の手を、自身の温かい頬に遠慮なく押し当ててきた。
「わっ、ちょっと……っ」
「いいの。私があったかいから、半分こすればちょうどよくなるでしょ?」
無邪気に笑う莉子の体温が、指先からじんわりと陽菜の胸の奥まで染み込んでくる。
暗闇の中、外から聞こえるのは雪が窓を叩く音だけ。まるで、世界からこの狭い部室だけが切り離されてしまったかのような夜だった。
「あーあ」
莉子が陽菜の手を握ったまま、ポツリと呟く。
「この乾パンが尽きるまで、ここで暮らそっか」
冗談めかしたその言葉に、陽菜は呆れたように笑い返した。
けれど、内心では——このまま本当に、世界がこの部屋だけになってしまえばいいのにと、本気で願ってしまっていた。




