第13話 ④
アルケスの街を背にして、二人はさらに北を目指した。
北方の短い昼は、夕刻を待たずに終わりを告げようとしていた。
空を覆い尽くす鉛色の雲が、じわじわと墨汁を垂らしたような深い藍色に染まり、やがて完全な漆黒へと世界を沈めていく。
それに呼応するように、風の音が一段と低く、鋭く変わった。
強烈な冷気が陽菜とアルトの肌を刺す。
新しく買った分厚い上着のおかげでアルトの震えは幾分かマシになったものの、それでも夜の雪原を歩き続けるのは自殺行為に等しかった。
「へへっ……さすがは高級品だねっ、お姉さん! ぜ、全然寒くないよ」
こちらに気を遣わせまいと、アルトが強がって胸を張る。
その瞬間、ぴゅうっと風が吹きつけ、アルトは「あばばば」と震え始めた。
陽菜は彼の手を強く握り返し、魔力で周囲の空間を探った。このまま立ち止まれば、いくら寒さに耐性のある魔族二人とはいえ、あっという間に雪に埋もれてしまう。
どれくらい風雪の中を彷徨っただろうか。
やがて、降り続ける雪の向こう側に、小さな灯と人の気配が感じ取れた。
「アルトくん、あそこ! たぶん宿場町だ!」
陽菜が指差した先。視界が開けた先に広がったのは、アルケスの服屋で教えてもらった宿場町の入口だった。
それまで凍えて重くなっていた足取りも、ゴールが見えると軽く思えるのは不思議である。
二人は手近な宿に入り、手続きを済ませると、冷え込んだ手を擦り合わせながら二人部屋へと入った。
中に入ると、あまり頻繁に使われることもないのか、埃とカビの入り混じった空気が鼻を突いたが、吹き荒れる風雪から身を隠せるだけで、そこは天国のように思えた。
「ふう……っ」
アルトが床にへたり込み、荒い息を吐く。
陽菜はすぐさま部屋の中を見回した。部屋の中央には石組みの簡素なかまどがあるが、中の薪には火は点いていない。
「……よーし」
「えっ、嘘でしょ、お姉さん? 普通に受付に頼んで火を熾してもらおう?」
しかし陽菜は聞いていなかった。
別の意味で震えるアルトを横目に、薪に向けてそっと指先を突き出す。
(今度は、絶対にやりすぎない。……少しだけ、ほんの少しだけ)
昨日の雪原での大失敗を教訓に、陽菜は己の裡で渦巻く膨大な魔力を、針の穴を通すような極限の集中力で絞り込んだ。
パチン、と小さく指を鳴らす。
チリッ、と微かな火花が散り、乾いた薪の表面に小さな赤い炎が灯った。
炎はゆっくりと木を這い、やがてパチパチと心地よい音を立てながら、確かな熱を帯びて燃え上がり始めた。
「……くくっ、やったぜ! これで炎魔法はマスターだよっ!」
「うん……よかった、本当に」
「なんか最近、アルトくんのリアクションが薄くなってない?」
男の子は成長が早いんだなぁ、と陽菜が頓珍漢な感心をする中、アルトは無表情でかまどへと身を寄せた。
オレンジ色の柔らかな光が、暗い部屋の中を円く照らし出す。
それとともに冷え込んだ空間がじんわりと温まり始め、陽菜とアルトはしばし炎の熱を全身で浴びていた。
凍りついていた手足の感覚が、ゆっくりと溶けていく。
陽菜は荷物から硬い携帯食料と水筒を取り出し、火のそばで少しだけ温めてからアルトに手渡した。アルトは無言でそれを受け取り、小さくかじりつく。
極限の寒さと疲労に晒された身体には、ただ温かいものを胃に入れるだけで、強烈な睡魔が襲ってくるものだ。
食事が終わる頃には、アルトのまぶたはすっかり重くなっていた。
「眠いなら、寝てていいよ。火の番は私がしておくから」
「ううん……お姉さんも、疲れてるのに……」
「大丈夫。私はこれでも、すっごく強いからね」
力こぶを作ってみせるが、その細腕にはまるで筋肉が盛り上がる様子はない。
そのことが可笑しかったのか、アルトはふへへ、と半分寝ながら笑う。
陽菜も返すように優しく微笑みかけると、アルトは安心したようにふうっと息を吐き、そのまま目を閉じた。
ベッドに運びゆっくりと毛布をかけてあげると、数分もしないうちに、規則正しい小さな寝息が響き始める。
道中必死に強がって見せていた様子が目に浮かんだ。
まだ小さな子供なのに、辛いことがあっても音を上げず、目的に向かって真っ直ぐ進む。
(眩しすぎるくらいだよ)
陽菜は、しばらくその寝顔を愛おしそうに見つめていた。
静かだった。
外では相変わらず猛吹雪が吹き荒れ、宿の外壁をガタガタと揺らしているが、この小さな空間だけは別の世界のように切り離されている。
残された陽菜は、膝を抱え、ただじっと燃え盛る炎を見つめていた。
パチッ、と。
薪が爆ぜる乾いた音が、薄暗い小屋の中に響く。
揺らめくオレンジ色の光が、陽菜の網膜に焼き付いていく。
温かい。火のそばは確かに温かいはずなのに、アルトの寝顔から視線を外して一人になった途端、陽菜の胸の奥にはどうしようもない孤独の冷たさが這い上がってきた。
昼間に立ち寄った店で見かけた、あの赤いマフラーの記憶が蘇る。
もし、あの子がここにいたら。
『寒いね』と笑いながら、この小さな炎を一緒に囲んでいただろうか。
一つの毛布にくるまって、くだらない話をして、肩を寄せ合って、この静かな夜を越えていただろうか。
パチ、パチパチ。
不規則に鳴る火の音が、遠い日の記憶の扉をノックしているような気がした。
視界で揺らめく炎の輪郭がゆっくりと滲み、別の景色へと溶け出していく。
——そうだ。あの日も、こんなふうに雪が降っていた。
窓の外を白く染めていくのを、ただ二人で、安全な部屋の中から眺めていた、あの日。
陽菜の意識は、薪の爆ぜる音と共に、かつての世界の記憶へと静かに沈んでいった。




