第13話 ②
熱波によって生じた濃密な白煙の向こう側。
分厚い雪の壁のさらに奥から、低い、地を這うような唸り声が複数響き始めたのは、その直後のことだった。
「え……?」
アルトの笑い声がピタリと止まった。
吹き荒ぶ吹雪の音に混じって、ザクッ、ザクッと、重い足音が雪を踏みしめながらこちらへ近づいてくる。一つや二つではない。四方八方から、岩陰を包囲するように音が連鎖していく。
やがて北風が白煙を散らすと、その正体が姿を現した。
「ええーーっ! お、狼!?」
アルトの喉から、信じられないものを見たというような悲鳴が漏れた。
それは、全身を氷柱のような鋭い体毛で覆われた、巨大な雪狼の群れだった。体長は優に二メートルを超え、剥き出しになった牙の間からは、飢えを示すようなどろりとした唾液が垂れ下がっている。
極寒の北方にのみ生息する凶暴な魔獣。彼らは、陽菜が先ほど無自覚に放ってしまった莫大な熱と魔力の匂いに引き寄せられ、獲物を求めて集まってきたのだ。
「グルルルルル……ッ!」
血走った十数頭の瞳が、獲物である陽菜とアルトを正確に射抜く。
逃げ場はない。アルトは恐怖で顔を青ざめさせ、震える両手で陽菜の外套の裾をちぎれんばかりに強く握りしめた。
その怯えきった少年の震えが伝わってきた瞬間、陽菜は静かに息を吸い込んだ。
かつて商館の地下で暴走させてしまった、陽菜の力。しかし今の彼女に、それを行使することへの恐怖や躊躇いはもうない。
背中にある小さな命を守り抜く。ただその一点の決意だけが、陽菜の中にある莫大な魔力を完璧に統制していた。
群れのリーダー格である一際巨大な雪狼が、雪を蹴立てて宙を舞った。
大きく開かれた顎が、陽菜たちの喉元を食いちぎらんと迫る。
「お姉さんっ!!」
アルトの悲鳴が、凍てつく空気を裂く。
だが、陽菜は一歩も引かず、ただ静かに、迫り来る凶牙へ向けてすっと右手を差し出した。
その瞬間、音もなく陽菜の足元から伸びた影が、雪原を這う漆黒の刃となって空間を裂く。
「——ッ!?」
声にすらならなかった。
空中に飛びかかっていた巨大な雪狼は、目に見えない淵に呑み込まれたかのように、不自然に空中でその輪郭をブレさせ……次の瞬間には、空間から掻き消えていた。
雪の上に叩き落とされる音すらない——それは、最初からいなかったのではないかと錯覚するほどの完全な消滅であった。
仲間の突然の消失に、周囲を取り囲んでいた魔獣たちの動きがピタリと止まる。
彼らは野生の本能で瞬時に理解してしまった。
目の前に佇む少女は、か弱き獲物などではない。自分たちのような獣が何万匹群れようと決して触れることすら許されない、次元の違う存在なのだと。
陽菜が無言で一瞥を向けると、残った雪狼たちは一斉に背を向けて逃げ去っていった。
飢えた魔獣の群れは一瞬の内に消え、辺りには再び静寂が戻る。
陽菜がふぅ、と息をつくと、大地を覆っていた黒い影が雪原へと溶けていき、白銀の世界が現れた。
「……ふうっ、びっくりしたぁ」
そして背後から聞こえてきたのは、アルトの声。
振り返ると、先程までの怯えもすっかり収まり、ホッとしたような笑みを浮かべた少年の姿があった。
その少年は雪を払って立ち上がると、パタパタと一直線に陽菜のもとへ駆け寄ってきた。
「ありがとう、お姉さん。……また僕、守ってもらっちゃったね」
アルトはそう言って、照れくさそうに頬を指で掻いた。
そこには、陽菜の力に対する恐れや、得体の知れないものを見るような色は微塵もない。ただ、絶対に自分を守ってくれる存在への、無条件の信頼だけがあった。
「……ううん。怪我がなくてよかった」
少しだけ意外だった。もしかしたらまた怖がらせるかもしれないと思っていたから。
陽菜は安心したように微笑むと、しゃがみ込んでアルトの視線の高さに合わせながら、彼の小さな手をきゅっと握りしめた。
自分が魔王である事実からは、もう逃げられない。その力で過去に罪を犯したことも消えない。
けれど、この真っ暗で恐ろしい力も、こうして信じてくれる誰かの手を引き、守り抜くために使うことができるのだ。
「それじゃあ、気を取り直して出発しようか。こんなところにいたら、また別の魔獣が来ちゃうかもしれないしね」
「うん! あ、でも、次にお姉さんが魔法を使うときは、もう少し離れてからにするね。お尻が焦げちゃうかと思ったよ」
「あはは……ほんと、ごめんね。ちょっと火加減の練習しておく」
冗談めかして笑う少年に、陽菜も声を上げて笑った。
まだ完全に自分の過去や本性を受け入れられたわけではない。だが、陽菜は自分の力をただ恐ろしいだけの悪だと決めつけることをやめた。
吹き荒れる吹雪の中、二人は再び、北の空に向かって確かな足跡を刻み始めた。
◇
雪原での思わぬ足止めから一日。
陽菜とアルトは、国境のゼノア鉱山へ至る前の中継地点となる、ある雪深い街へと辿り着いていた。
街の入口に立つ錆びれたアーチには『アルケス』と書かれている。
石造りの家々の屋根には分厚い雪が積もり、街路を行き交う人々の吐く息は一様に白い。北へ進めば進むほど、冬はその牙を鋭くし、容赦なく二人の体温を奪いにかかってくる。
「アルトくん、鉱山に向かう前に、もう少し厚手の上着を買おうか。今のままじゃ、夜を越すのがきつそうだし」
「うん、わかった。……でも、僕お金持ってないし、このままだと魔族ってバレちゃう」
アルトは薄い外套を頭まですっぽりと羽織っていたが、その頭の布は、明らかに下に角があると分かるくらいに押し上げられている。
しかし、それこそ陽菜の出番である。
彼女はふふん、と得意げに鼻を膨らますと、指を鳴らすポーズを取った。
勢いよく打ち付けた中指は、ぺす、と頼りない音を立てたのみだったが、効果は覿面だった。
なんと、アルトの角が一瞬の内に消えてしまったのである。
アルトは不思議そうに自分の頭を触り、口をあんぐりと開けている。
「ふっふっふ、これがお姉さんの力だよ。驚いただろう」
「す、すごい……! 指も鳴ってなかったし、昨日の炎のときはダメダメだったのに、一体どんな手品を……?」
「ぶふっ! 無邪気な言葉が刺さる……。ま、まあ、ちょっと本気を出せばこれくらいね」
別に指を鳴らす必要はないし、魔法の出力調整が精密なのも普段から自分の角を隠すのに使っているからというだけだが、少しでもいい格好をしようとした自分が恥ずかしい。
陽菜は顔が火照るのを誤魔化すようにブンブンと首を振ると、
「それじゃあ、あそこのお店に入ってみようか」
と、目抜き通りに建つ一軒の服屋を指差した。
カラン、と古びた真鍮のベルを鳴らして重い木扉を押し開けると、店内には暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音と、羊毛の柔らかな匂いが満ちていた。
外の凍てつく寒さから一転、じんわりと染み込んでくるような温気に、アルトがふうっと心地よさそうな息を吐く。
「いらっしゃい。外は随分と冷えるでしょう」
奥から顔を出した人の良さそうな店主が、陽菜たちを出迎えた。
店内に所狭しと並べられた毛皮のコートや厚手の靴下を見て回る。
アルトの背丈に合う、動きやすくてとにかく風を通さない上着。それを熱心に探しているうちに、ふと、陽菜の視線がある一点に吸い寄せられた。
それは、薄暗い店内の中でひときわ目を引く、鮮やかな赤みを帯びたマフラーだった。
周囲の茶色や灰色といった実用性重視の防寒具の中で、そのマフラーだけがまるで春の陽だまりのような、どこか特別な温かさを放っているように見えた。
無意識のうちに足が動き、陽菜はそっと指先を伸ばしていた。
触れてみると、見た目以上にふんわりと柔らかく、手のひらからじんわりと熱が伝わってくるような上質な手触りだった。
「おや、お目が高い。それは南の羊の良質な毛だけを使って編み上げた、うちの自信作ですよ。とても温かくて、雪の降る日にはぴったりでしょう」
いつの間にか陽菜の側に立っていた店主が、自慢げに声をかけてきた。
「……ええ、本当に。とても温かいですね」
陽菜はマフラーの端を指で優しくなぞりながら、ふっと口元を綻ばせた。
「私の親友に、すごく似合いそう」




