第12話 ⑤
嵐が過ぎ去ったあとのような、奇妙なほど穏やかな静寂が食堂を包んでいた。
トーマとセリアは、グレイの残していった金貨の袋を分け合い、旅立ちの準備を整えていた。
北の果てへ向かうのか、それとも名もなき小さな村に身を隠すのかは分からない。ただ、二人の足取りにはもう昨夜のような重さはなく、寄り添う肩の距離には確かな体温が通い合っている。
「これまでお世話になりました。あのとき、トーマと一緒に入ったお店が喫茶リリーで本当に良かった」
そうして出立の準備が整った二人は、晴れやかな笑顔を莉子たちに向けた。
「こっちからしたらいい迷惑よ。お店は閉める羽目になるし」
「え、でもあのとき魔法で店をぐちゃぐちゃにしたのは莉子さんじゃ……」
「何か言った、ミーシャ?」
ゴゴゴ、と音の聞こえてきそうな莉子の殺気に、ミーシャはすごすごと引き下がる。
ひとしきり笑い合ったあと、セリアが表情を改めて莉子の前に進み出た。
その隣に、少し痩せた頬に生傷を残したトーマが並んで立つ。
グレイとの決闘で負ったそれらの傷は、ルミィが手当したことでほとんど綺麗になっていて、彼の表情は幾ばくか逞しくなったように見えた。
「莉子さん。……本当に、なんとお礼を言えばいいか」
「私、あなたたちに何もしてないわよ。全部、あなたたち二人で決めたことでしょう」
莉子がそう返すと、セリアは一瞬きょとんとしたあと、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ええ。……そうですね。私たちが、自分で決めたんです」
その言葉に迷いはなかった。家格も財産もかなぐり捨て、それでも隣にいる相手の手を選んだ女性の横顔は、出会った頃のどこか脆げな令嬢のものとはまるで違って見えた。
「二人は、これからどうするの」
「まだ決めていません。でも、どこへ行っても、二人一緒なら大丈夫な気がするんです」
トーマが照れくさそうに頬を掻きながら、それでもしっかりとセリアの言葉に頷く。
「お二人も、探している方に……早く会えるよう祈っています。喫茶リリーが、また開く日を楽しみにしていますから」
ルミィが「必ず戻りますからね」と目を潤ませ、ヴィエラは「達者でね」とだけ短く告げた。ミーシャは別れが惜しいのか、セリアの手を両手で握ってぶんぶんと振っている。
やがて二人は、何度も振り返って手を振りながら、雪解けの始まった街道を南へと歩き出した。
その寄り添う背中が、行き交う人混みの向こうに小さくなり、やがて見えなくなる。
——別々の道を選んだ、けれど確かに前を向いた二つの背中。
それを見送った莉子の胸に、寂しくも仄かに温かい感情が、静かに残された。
「まあまあ、リゼ様。おかげでこうして陽菜さんを探しに来られたじゃないですか。少しずつ手がかりもあるようですし」
「うん……」
莉子は自分の荷物から、丁寧に紙で包まれたひとつの品を取り出した。
昨日、防寒具店で購入した赤いマフラー。
指先でなぞると、上質なウールがとても温かく、柔らかい。
『私の親友に、すごく似合いそう』
店主が語った陽菜の言葉が、暖炉の火の粉のように、莉子の胸の奥でふわりと舞い上がる。
あの不器用な親友は、こんな遠く離れた北の街で、見えない自分のためにこのマフラーを選ぼうとしてくれた。私のことを大切に想い、気にかけてくれていた。
だというのに、彼女はその同じ手で私を拒絶し、一人で姿を消したのだ。
——トーマたちと、同じだわ。
莉子は、手の中のマフラーをぎゅっと握りしめた。
相手を愛しているからこそ、自分が泥を被る道を選ぶ。自分が側にいれば相手を不幸にしてしまうと思い込み、一番欲しいはずの温もりを自ら遠ざける。
それは間違いなく彼女なりの優しさなのだろう。
だが、その独りよがりな優しさが、突き放された側をどれほど深く傷つけるか。残された側が、どれほど惨めで、胸を掻き毟るような無力感に苛まれるか。
陽菜はきっと、その痛みに気づいていない。
「……そうか、私、怒ってたんだ」
莉子の唇から、ぽつりと声がこぼれた。
陽菜が消えた夜からずっと、胸に燻っていた靄のような感情。悲しみでもなく、戸惑いでもなく、それは明確な怒りだったのだと、莉子は今ようやく気がついた。
私を傷つけたくないという言い訳で、私から選択肢を奪うな。
勝手に私の幸せを決めるな。
だが、その怒りに任せて、再び彼女の手を力ずくで引くことは、もうできない。
先ほど、トーマとセリアの決意を前にして、莉子ははっきりと理解してしまった。
「私が助けてあげる」だなんて自分が振りかざしていた正義感もまた、彼らの自己犠牲と同じように、相手の意志を無視した善意の暴力でしかないのだと。
力ずくで連れ戻すのは、違う。
でも、あの子の独りよがりな自己犠牲を「はい、そうですか」と受け入れて引き下がることも絶対にできない。
なら、私はあの子に何を言えばいい?
どんな言葉をかければ、あのとき離してしまった手をもう一度繋ぐことができるのだろうか。
その答えは、まだ見つからない。
右にも左にも振り切れない振り子のように、莉子の心は未だ不確かな揺れの中にあった。
ただ、以前のような「自分が正しい」という考えを傲慢だったと思えるくらいには成長したと思う。
今はもっと、陽菜のことが知りたい。あの子が今何を感じて、何に迷っているのか——次に会った時にはたくさん話してみよう。
莉子はそっと息を吐き出すと、懐から古い羅針盤を取り出した。
ガラスの奥を見た瞬間、莉子の目が僅かに見開かれた。
ずっと真っ直ぐ北を指していた羅針盤の針が、いつの間にか北西の方角へと逸れ始めていた。
陽菜も動いている——。
いつまでもここで手をこまねいているわけにはいかない。
「……莉子さん?」
「行くわよ、ミーシャ。みんなも」
莉子は立ち上がり、赤いマフラーを荷物の奥へとしまい込んだ。
まだ答えは出ていない。何を伝えればいいのかも分からない。
それでも、今すぐにあの子に会わなければならない。この広大な北の地で、彼女の背中を完全に見失ってしまう前に。
「いよいよ、あの子を探す旅に戻るのよ」
まだ熱を持ったままの暖炉に背を向け、莉子は食堂の扉を開け放つ。
頬を打つ冷たい北風の中へ、答えのない問いを抱えたまま、莉子は確かな一歩を踏み出した。




