第12話 ④
「……来なさい」
グレイの静かな声が、開始の合図だった。
トーマは叫び声を上げながら、やみくもに長剣を振り上げた。しかし、素人の大振りな一撃など、熟練の騎士であるグレイに当たるはずもない。
グレイは半歩ずれてその刃を躱すと、すれ違いざまに鞘の先でトーマの脇腹を容赦なく打ち据えた。
「ガハッ……!」
肺から空気が押し出され、トーマは無様に床へと転がった。
食堂の硬い床に打ち付けられた顔が擦り切れ、一撃で口の端から血が滲む。
「トーマっ!」
「来るなっ!」
悲鳴を上げて駆け寄ろうとするセリアを、トーマは血の混じった声で制した。
彼は震える足に力を込め、重い長剣を杖代わりにして、再び立ち上がる。
「……まだだ」
再び打ちかかるトーマ。
だが、結果は同じだった。手首を打たれ、膝裏を払われ、肩口を強打される。
手加減のない鈍痛が何度もトーマの身体を打ち据え、その度に彼は床に這いつくばり、生傷を増やしていく。誰の目にも勝敗は明らかだった。
莉子は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
あんなものは決闘じゃない。ただの暴力だ。それなのに——。
トーマの目が、莉子の視界に飛び込んできた。
血と泥に塗れ、立っているのもやっとの満身創痍。それでも彼の瞳の奥には、決して折れない強靭な光が宿っていた。
彼は、セリアを守るために戦っているのではない。自分自身の弱さと向き合い、愛する女の隣に立つ資格を、自らの血を流して証明しようとしているのだ。
もしここで莉子が助けに入れば、彼の命は救われるかもしれない。
だがそれは同時に、彼が命懸けで示そうとしている覚悟を踏みにじり、二人が自らの足で歩み出すための未来を、根本からへし折る行為に他ならなかった。
(私が手を出したら……二人の選択を、奪うことになる)
莉子は、ハッと息を呑んだ。
相手を想うからこそ、手を出してはいけない時がある。力ずくで安全な場所へ引きずり戻すことが、必ずしも正解ではないのだ。
そのことに気付いた瞬間、脳裏に陽菜の姿が浮かんだ。
莉子は震える手を握りしめ、真っ直ぐに前を見据える。
「……見届けましょう、彼らの決意を」
すぐ隣から、ミーシャの静かな声が聞こえた。
振り返ると、ミーシャはどこか安堵したような、優しい微笑みを浮かべて莉子を見ていた。その言葉に、莉子は無言で小さく頷きを返す。
「うおおおおおおおっ!!」
トーマの裂帛の気合いが、食堂に響き渡った。
彼は残された最後の力を振り絞り、グレイへと突進する。
グレイは冷徹に相手の動きを見極め、迎撃のために鞘を鋭く突き出した。狙いはトーマの右肩。当たれば確実に鎖骨が砕け、剣を落とす必殺の一撃。
誰しもがそれを避けると思ったが——トーマは躱さなかった。
「……なっ」
グレイが僅かに目を見張る。
トーマは自ら前方へと踏み込み、肩口に迫る一撃を、あえて自分の身体の急所から少しだけ逸らして受けたのだ。
ゴッ、と骨の軋む鈍い音が響く。激痛にトーマの顔が歪むが、彼は決して立ち止まらない。自らの肉を犠牲にしてグレイの武器を封じ、完全に懐へと入り込んでいた。
そして、至近距離から、渾身の力を込めた長剣を振り上げる。
トーマの構えた切っ先が、グレイの喉元の僅か数センチのところで止まっていた。
あと少しでも踏み込めば、老騎士の首を刎ね飛ばせる距離。
一瞬の出来事に、その場が静まり返った。
荒い息を吐きながら、必死に剣を握りしめるトーマ。
その切っ先を見つめたまま、グレイは微動だにしない。
やがて。
老騎士はふっと口元を緩めると、構えていた鞘をゆっくりと下ろした。
「……お見事」
その低く穏やかな声が、勝負の決着を告げていた。
それと同時に、限界を迎えていたトーマの手から長剣が滑り落ちる。
彼の身体も一緒に崩れ落ちていったが、それよりも早くセリアが飛び込み、そのボロボロの身体を強く抱きしめた。
「トーマ……トーマっ……!」
「はは……。やったよ、セリア」
血塗れの顔で不器用に笑うトーマを、グレイは静かに見下ろしていた。
トーマはセリアに支えられながら身体を起こすと、テーブルの上に置かれたままになっていた金貨の袋を手に取り、グレイへと差し出した。
「約束通り……僕たちは逃げます。このお金は、お返しします」
「……その必要はありません」
勝負に負けたものの、グレイの息はまったく乱れていない。
その老騎士は首を横に振ると、信じられない言葉を口にした。
「その金貨は、旦那様からお二人への、ささやかな餞別なのですから」
「……え?」
目を丸くする二人に、グレイは懐から一枚の手紙を取り出し、静かに語り始めた。
「旦那様は、お嬢様が家を出て行かれた日から、ずっと気に病んでおいででした。もちろん、貴方のような身分違いの平民に娘を嫁がせることなど、内心では今でも猛反対しておいでです。しかし同時に……お嬢様をそこまで惹きつけた貴方の愛情の深さも、幾分かは認めておられた」
「お父様が……?」
「ええ。ですから、私にこう命じられたのです。『もしあの男が、圧倒的な試練を前にしても逃げ出さず、己の意思と覚悟を示すことができたなら……その時は、これを持たせて行かせてやれ』と」
グレイの言葉に、トーマとセリアは息を呑んだ。
この追走劇そのものが、不器用な父親が仕掛けた、娘を託すに足る男かどうかを見極めるための最初で最後の試練だったのだ。
「貴方は見事に、お嬢様への愛を証明して見せた。……どうか、幸せになられよ。旦那様と私の分まで」
グレイは深く、恭しく一礼した。
そしてゆっくりと顔を上げると、一転して厳かな様子で切り出した。
「身分違いの恋など、貴族の社会では決して許されぬこと。お二人がこの先自由に生きていくためには、家との縁を断ち切る必要があります。そのお覚悟はありますかな、お嬢様」
「もちろんです。どうか、これをお持ちくださいませ」
セリアは少しも迷うことなく頷くと、髪留めを外しグレイに手渡した。
一目で高価と分かる装飾の施された髪留め。それに老騎士は目を見開く。
その、背後に控える私兵たちへと振り返って厳かに告げた。
「皆の者、聞け。我々が追っていたお嬢様は、逃走の果てに崖から激流へ身を投げられた。……見つかったのは、この遺品だけだ」
私兵たちは一糸乱れぬ動きで深く頷き、踵を返して宿屋の出口へと向かう。
「これでもう、貴方たちを追う者は誰もおりません。……自由にお生きなさい、セリアお嬢様」
グレイもまた、一度も振り返ることなく、北の冷たい風の中へと消えていった。
後に残されたのは、抱き合って静かに涙を流す二人の姿と、暖炉のパチパチという温かい音だけだった。
莉子は、その光景を黙って見つめていた。
もし自分が正義感を振りかざし、「助けてあげる」と二人の間に割って入っていたら、彼らはこの未来を掴めなかった。
ただ安全な場所へ連れ出すことだけが、正しいわけじゃない。
相手の覚悟を尊重し、痛みを受け入れ、手放すことで初めてたどり着ける答えがあるという事実。
(陽菜……)
莉子の胸の奥で、かつてないほど確かな決意が、静かに熱を帯び始めていた。




