第12話 ③
莉子は、セリアが泣き崩れるか、あるいは絶望に顔を覆うものだとばかり思っていた。
愛した男から「金づるだった」「うんざりだ」と突き放されたのだ。そのショックは計り知れない。
だからこそ、自分が彼女を救い出してあげなければならないのだと。
それなのに、顔を上げたセリアの瞳には、涙ひと粒浮かんでいなかった。
彼女はゆっくりと莉子の手を振りほどいた。
「——ありがとう、莉子さん。でも、私にはそんなことをしていただく資格はないの」
静かな拒絶。
莉子は信じられないものを見るように息を呑んだ。
セリアは立ち上がると、莉子の横を通り抜け、一直線にトーマの前へと歩み寄った。
そして、テーブルの上に転がっている金貨を一瞥し、真っ直ぐに青年の目を見据えた。
「トーマ。……それは、嘘よ」
「嘘……? どうして君にそんなことが言えるんだ」
トーマは顔を逸らし、必死に悪党の仮面を保とうと声を張った。
「この金を見ても分からないのか? 現実を見ろよ。僕は君を売ったんだ。君のお父様から、莫大な手切れ金をもらう約束をして!」
「いいえ、そんな約束をお父様がするはずないわ。ああ見えて、守銭奴なのよ。そんなことするくらいならグレイたちを使って貴方を行方不明にするんじゃないかしら」
セリアの凛とした声が、トーマの言葉をすっぱりと切り捨てた。
それまでの弱々しく震えていた彼女の姿からは想像できないような迫力に、トーマはすっかり言葉を失っている。
「でも……」と何とか反論しようとするも、その続きが彼の口から紡がれることはなかった。
厳しい目を向けていたセリアは、しかし今度は彼の背後に立つ老騎士へと視線を移すと、その緊張が解けたように、一転して物悲しそうに眉を下げた。
「……それにね、トーマ。私、黙っていたことがあるの——昨夜グレイに会ったのは、貴方だけじゃないのよ」
「えっ」
ふと零れた言葉に、トーマだけでなく莉子たちも一斉に顔を上げる。
「『私が大人しく家に戻るから、彼を無傷で逃がしてほしい』とお願いしに行ったのよ。——ねえ、グレイ? 私がすでに家に戻ると言っているのに、わざわざこの人に手切れ金なんて払う理由、どこにもないわよね?」
その言葉に、食堂の空気がピタリと止まった。
莉子も、ミーシャも、そして誰よりもトーマ自身が、目を大きく開いて驚きを露わにしている。
「なん……だって?」
トーマの口から、間の抜けた声が漏れた。
「セリア、まさか君……昨夜、僕が部屋を出た後……?」
「ええ。貴方より先にグレイたちの泊まってる宿屋に向かってね。そして貴方が戻ってくる前にここへ戻ったの」
呆然とするトーマの肩越しに、グレイがふうっと、それはもう深々と、底の抜けるような溜息をついた。
「まったく……。これだから若者の相手は骨が折れる」
昨夜、トーマが取引を持ちかけた時にグレイがこぼしたあの言葉。それはトーマに向けられたものではなかった。
その直前に乗り込んできたセリアの姿が重なっていたからこその、呆れ果てた溜息だったのだ。
グレイは呆然と立ち尽くすトーマに視線を向けた。
「お嬢様がお戻りになった後、すぐに入れ違いで貴方がやってきたのです。お嬢様は『自分が戻るから男を見逃せ』と言い、貴方は『自分が捕まるからお嬢様を無傷で帰せ』と言う。……どちらも馬鹿の一つ覚えのように、自分のことを蔑ろにすればよいとでも思っているのですかな。悲劇の英雄でもあるまいに……。おかげで昨夜は、ろくに酒も楽しめませんでしたよ」
グレイの皮肉めいた種明かしに、トーマは完全に言葉を失い、へなへなと丸椅子に崩れ落ちた。
「……セリア。どうして、そんな馬鹿なことを」
「馬鹿ですって……? 貴方の口からそんなことが言えるの」
セリアの唇から、ふっと自嘲するような笑いが漏れた。
同時に、これまで気丈に堪えていた瞳の奥から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出す。
「貴方が辛そうにしていることくらい、私にだって分かってた。私のことばかり気遣って自分をずっと犠牲にして。……見てられなかった」
「……」
「宿を出ていったとき、すぐに理由が分かったわ。だから、先回りしてグレイにお願いしたの」
涙声で突きつけられた真実に、トーマはただうつむき、強く唇を噛み締めることしかできなかった。
相手のためだと思っていた自分の決意が、いかに独りよがりで、彼女の心を苦しめていたのか。その事実が、今更ながらにトーマの胸を抉っていた。
セリアは一歩踏み出し、震えるトーマの手を両手でしっかりと包み込んだ。
「私のことを大切に思ってくれているのは嬉しいわ。でも、私は貴方に守ってほしいわけじゃないの」
セリアは涙で顔を濡らしながらも、優しい笑みを浮かべる。
「温かいベッドも豪華な食事もいらない。どちらかが欠けて一生後悔するくらいなら……二人で一緒に貧乏になって泥水をすすって生きる方が、ずっとマシよ」
生まれ持った家柄も、自らの欲するものを手に入れる事のできる財力も、すべてをかなぐり捨てるという選択。
セリアはそれでも、何一つ持たない青年と共に傷つく道を選んだ。
トーマはしばらくの間、顔をくしゃくしゃにして嗚咽をこらえていたが、やがてセリアの冷え切った手を、今度こそ強く握り返した。
「……ごめん。ごめん、セリア……っ」
乱暴に涙を拭い、トーマはゆっくりと立ち上がった。
セリアを背中で庇うようにして、背後に立つ老騎士を真っ直ぐに見据える。
「グレイさん。もう、取引はしません。僕は彼女と生きていく。力ずくでも、連れて帰らせはしない」
その決意に満ちた声に、グレイは推し量るような厳しい目を向けた。
「……言うのは易し、ですな。先ほどご自身で仰っていたではありませんか。自分にはお嬢様を守り抜く力も、逃げ切る力もないと」
グレイが顎でしゃくると、背後の私兵の一人が前に出て、腰に下げていた剣をトーマへと渡した。
トーマの細腕は、その重みに耐えられず剣先が地面についてしまう。
ゴン、と重い音が静寂に中に響いた。
「口では何とでも言えましょう。しかし一度お嬢様を裏切ろうとした貴方を認めることが出来るはずもない。そんなに現実は甘くありませんぞ。……私から一本。たった一太刀でも私に一撃を入れることができたら、今日のところは兵を引き、お二人の関係を旦那様に掛け合ってあげましょう」
「グレイ……! そんな、トーマは剣なんて握ったことすらないのに……」
セリアが心配そうに声を上げるが、グレイは取り合わず、鞘に入ったままの長剣を構えた。
「関係ありません。もしできなければ……その程度の男だったということです。逃げたければ逃げればいい。どうしますかな?」
圧倒的な実力差。普通に考えれば、剣を握ったこともない平民の青年が、歴戦の騎士であるグレイに一太刀浴びせることなど不可能だ。
だが、トーマは一切の躊躇いなく歯を食いしばり、やっとの思いで持ち上げた剣を正眼に構えた。
「……やるよ。彼女のためなら、何度だって」
テーブルに転がったままの黄金の金貨が、鈍く光を反射している。
互いの愚かさを認め合い、圧倒的な試練を前にしても共にいることを選んだ二人の姿を、莉子は複雑そうな面持ちで見守っていた。




