第12話 ②
湧き上がる怒りのまま、気付けば莉子はトーマの胸ぐらを両手で思い切り掴み上げていた。
それまで座っていた丸椅子が勢いよく後ろへ倒れ、ガタンッと鈍い音を立てる。
「——ふざけないでっ!」
莉子の怒声が、薄暗い食堂をビリリと震わせた。
突然の行動にグレイの背後に控えていた兵士たちが色めき立つが、グレイはそれを片手で制した。
胸倉を掴み上げられたトーマは、抵抗しようともせず、ただ虚ろな目で莉子を見下ろしていた。
その態度が、莉子の怒りにさらに油を注ぐ。
「あんた、自分が何を言ってるのか分かってるの!? そんな嘘をついて、彼女を突き放して……それで誰が幸せになるっていうのよ!」
お金が目当てだったなどという言葉が嘘であることなど、昨夜の彼の苦悩を見ていた莉子にはとっくに分かっていた。
相手を想うからこそ、自分が泥を被り、悪者になって相手を遠ざけようとする。その自己犠牲の形が、何も言わずに自分の前から姿を消した陽菜の不器用さと重なっていた。
「そういう独りよがりな優しさが、残された人間をどれだけ惨めにさせるか……どうして、分からないのっ!」
最後の言葉は、自分でも気付かないうちに震えていた。
莉子はギリッと歯を食いしばり、そのままトーマの頬を打とうと右手を振り上げる。
だが——その手は、空を切る前に柔らかく受け止められた。
「……そこまでにしましょう、莉子さん」
いつの間にか莉子の横に入り込んでいたミーシャが、振り上げられた莉子の手首をしっかりと掴んでいた。
「離して、ミーシャ! こいつの目を覚まさせないと——」
「落ち着いてください。これ以上は、ただの八つ当たりです」
普段の気の抜けた態度からは想像もつかないほど、静かで、底知れない凄みを持ったミーシャの声。
その瞳に射抜かれ、莉子はすっかり動けなくなってしまった。
ミーシャの言う通りだ。怒りに任せて彼を殴ったところで状況が変わるわけではない。
莉子は荒い息を吐きながらトーマの胸倉から手を離すと、今度は青ざめて震えているセリアの前に跪き、その両手を強く握りしめた。
「セリア、聞いて。あんな男の言うことなんて真に受けなくていい」
「莉子、さん……」
「私たちが、あなたを遠くまで逃がしてあげる。この兵たちも追いつけないくらいずっと遠くへ。家にも、あんな男にも縛られる必要なんかないわ」
莉子の言葉は、熱を帯びていた。
圧倒的な力を持つ実家と、己の無力さから勝手に自己犠牲を選ぶ青年。その板挟みになって絶望している哀れな少女を、自分が救い出さなければならない。
それは、弱者を助けるという莉子なりの純粋な正義感だった。
「大丈夫、私たちが絶対になんとかしてあげるから」
莉子は、自分が絶対に正しいことをしていると信じて疑わなかった。
自分のこの提案こそが、悲劇から彼女を救い出す唯一の希望なのだと。
——だが、莉子は気づいていなかった。
相手の事情や、本当に望んでいるものを確かめもせず、「私が助けてあげる」「私が自由にしてあげる」と理想を押し付けること。
それは、当事者から選択の自由を奪い、己の価値観で塗りつぶそうとする善意の暴力に他ならないということに。
縋るようにセリアを見つめる莉子。
しかし、うつむいていたセリアがゆっくりと顔を上げたとき。
その瞳には、莉子が期待していたような光は、微塵も宿っていなかった。




