第11話 ⑥
夜のアルケスは、昼間よりもさらに厳しい底冷えがした。
石畳を撫でる風は氷のように冷たく、吐く息は輪郭を持つほどに白い。トーマの身体は一歩踏み出す毎に容赦なく体温を奪われていたが、彼の足取りに迷いはなかった。
トーマが向かったのは、街の中心部にある、アルケスでも比較的豪奢といえる宿屋だった。
大勢の武装した私兵たちの滞在は、この小さな街では嫌でも目立つ。すれ違った何人かの町人に尋ねるだけで、彼らの居場所はすぐに知れた。
その一階、貸し切りにされたであろう広い談話室の暖炉の前で、初老の騎士グレイは一人、静かにグラスを傾けていた。
その背後には、昼間トーマたちを囲んだ屈強な私兵たちが、彫像のように控えている。
入り口で私兵に阻まれたトーマだったが、グレイが小さく手を上げると、道が開かれた。
「……こんな夜更けに、丸腰で何用ですかな」
グレイは椅子に深く腰掛けたまま、暖炉の炎から視線を外さずに言った。パチパチと薪が爆ぜる暖かな音だけが、豪奢な部屋に響いている。
トーマは暖炉の熱気にわずかに身体の震えを鎮めながら、真っ直ぐに老騎士を見据えた。
「取引をしに来ました」
「取引?」
「僕が、自首します。窃盗でも誘拐でも、そちらの都合のいい罪状で構いません。そして二度と彼女には近づかないと約束する」
その言葉に、背後に控えていた兵士たちが微かに眉を動かした。
「……昼間、大通りのど真ん中で『彼女は離さない』と大見得を切ったのはどこの誰でしたかな」
老騎士の眼光が、値踏みするように青年を射抜く。
「舌の根も乾かぬうちに自ら首を差し出すとは。一体、どういう理由があってのことです」
「……あなたが言ったことを、否定したかった。セリアを連れて必死で逃げて、そうすればいつか二人で幸せになる未来があると信じてた」
トーマは強く拳を握りしめ、血を吐くような思いで言葉を絞り出した。
「でも、気づいてしまった……。僕には、彼女を守り抜く力も、逃げ切る力もない。僕が側にいれば、彼女は一生、今日のように追われ、泥水をすすって生きていくことになる……。愛だけじゃ、ダメなんだ」
「……」
「だから、僕が捕まります。その代わりに、彼女には一切の罰を与えないと誓ってください。安全で温かい……彼女の元いた場所に、丁重に連れ帰ってほしい」
それは、実質的な降伏宣言だった。
グレイはゆっくりとグラスをテーブルに置き、初めてトーマへ視線を向けた。
「……我々が首を縦に振るとでも? あなたが自首しようとしまいと、力ずくでお嬢様を奪い返すことは造作もないこと。わざわざあなたの条件を飲む理由がありませんな」
「それでは、ダメなんです」
トーマは強く拳を握りしめた。
「彼女は……セリアは、とても強い人です。力ずくで連れ戻そうとしても、彼女は絶対に抵抗して、また逃げ出そうとするはずだ。僕が捕まれば、なおさら僕を庇おうとする」
「……でしょうな。旦那様に似て、あの方はひどく頑固だ」
グレイの瞳の奥に、わずかに主への情のようなものが滲んだ。
トーマは一歩踏み出し、血を吐くような思いで、胸に秘めてきた計画を口にした。
「だから……あなた方に、悪役をお願いしたい」
「悪役、とは」
「明日の朝、金貨の入った袋を持って僕たちの宿へ来てください。そして、彼女の前で僕にその金貨を渡すんです」
「……」
「僕はそれを受け取って、彼女にこう言います。『最初からこの金が目当てだった。世間知らずのお嬢様のお守りはもううんざりだ』と。……そうすれば、彼女も僕を諦めて、大人しく家へ帰るはずです」
静まり返った談話室に、トーマの悲痛な声だけが落ちた。
それは、己の尊厳を捨て、愛する者から最も憎まれる道を選ぶという、完全な自己犠牲の提案だった。
グレイは目を細め、目の前に立つ薄着の青年をじっと観察した。
数秒の沈黙の後。老騎士はふうっと、呆れたような、ひどく深い溜息をついた。
「……自分が何を言っているのか、分かっておられるのですかな」
グレイのその呟きは、トーマの決意に向けられたものというよりは、何か別の『どうしようもない事実』に対して頭を抱えているかのような、奇妙な響きを持っていた。
だが、必死なトーマはそれに気づく余裕もなく、ただ老騎士の返答を待った。
「よろしい」
やがて、グレイは短く頷いた。
「あなたの言う通り、お嬢様に恨まれたまま強引に連れ帰るのは、旦那様の本意でもありませんからな。その提案、お受けしましょう」
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。お嬢様が不憫でなりませぬ。家柄もなければ財力もない。……何より、一度掴んだ手すらも離してしまうとは、見下げ果てた根性です。貴様のような男、兵へ突き出す手間すら惜しい。明日の茶番が終わり次第、即刻お嬢様の前から失せなさい」
厳しいグレイの問いかけに、トーマは一瞬だけ、泣き出しそうなほどに顔を歪めた。
だが、すぐにそれを引き結び、深く一礼してグレイに背を向けた。
「まったく……。これだから若者の相手は骨が折れる」
その背後で小さく呟く声は、彼の耳には届いていなかった。
◇
トーマが裏通りの安宿へ戻ったときには、暖炉の火はすでに消えかかり、部屋は再び冷たい空気に包まれ始めていた。
莉子やミーシャたちが眠る隣の部屋からは、物音ひとつ聞こえない。
トーマは音を立てないように扉を閉めると、窓際にある粗末なベッドへ歩み寄った。
そこには、分厚い毛布にくるまり、壁の方を向いて丸くなっているセリアの背中があった。
規則正しい寝息が、静かな部屋に微かに響いている。
(これで、いいんだ)
トーマは、眠る彼女の背中を見つめながら、心の中で自分に言い聞かせた。
自分の無力さで彼女を泥に引きずり込むくらいなら、憎まれてでも、安全で温かい場所へ帰してやりたかった。
明日の朝、自分が血を吐くような嘘をつき、彼女に蔑まれるその瞬間まで。この不器用で残酷な決意を知る者は、自分一人だけでいい。
「……ごめん、セリア。君を、幸せにできなくて」
トーマが誰にも聞こえない声で落としたその呟きは、冷え切った夜の空気の中へ、虚しく溶けて消えていった。




