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第11話 ⑤

 その日の夜。アルケスの裏通りにある安宿の一室には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが虚しく響いていた。


 道中ではあんなにも賑やかだった六人の間に、重く、息苦しい沈黙が降り降り積もっている。

 木皿には黒パンとすっかり冷めた干し肉のスープがあるものの、誰もそれに手をつけようとはしなかった。

 空腹に弱いはずのミーシャでさえ、所在なさげに俯いたままスプーンを握りしめている。


 部屋の隅、窓際の粗末な丸椅子に腰掛けているトーマは、微動だにせず自分の両手を見つめていた。


(愛だけで、彼女を幸せにはできない——)


 老騎士グレイの冷酷な宣告が、呪いのようにトーマの脳内で反響し続けていた。


 あのままセリアの手を引いて逃げたとして、明日はどうなる。来月は。来年は。

 自分は彼女に、温かいベッドも、安全な食事も、怯えることのない夜も与えてやれない。自分が彼女の手を握り続けている限り、あんなふうに武装した追手から一生逃げ惑い、泥水をすするような生活を強いることになるのだ。


「……トーマ」


 不意に、静かな声が落ちた。

 セリアだった。彼女はトーマの隣にそっと歩み寄ると、不安げに揺れる瞳で青年を見下ろした。


「傷は、痛まない?」

「……ああ。平気だよ。ミーシャさんや皆さんに守ってもらったからね」

「ごめんなさい。私の家のせいで、あなたにあんな思いを……」

「君が謝ることじゃない。僕が、不甲斐ないだけだ」


 トーマの声はひどく掠れていた。

 セリアは痛ましそうに顔をゆがめ、その冷え切った手を包み込もうと指先を伸ばす。


「——ごめん。少し、風に当たってくる」


 だが、トーマはその手が触れる直前で立ち上がり、逃げるように身を翻した。


「トーマ……?」

「夜風で頭を冷やしたいんだ。すぐ戻るから、君は先に休んでいて」


 すれ違いざま、トーマは決してセリアの顔を見ようとはしなかった。

 古びた木扉が閉まる音が、部屋の中に重く響き渡る。


 取り残されたセリアの手が、空を掴んだまま宙で止まっていた。

 その顔には、隠しきれない焦燥と悲痛な色が浮かんでいる。

 彼女はゆっくりとその手を下ろすと、縋るように、ベッドの上の外套を見つめた。


 部屋の反対側から、莉子はその一部始終を静かに見つめていた。


 二人の間に横たわる、残酷なほどの思いやり。

 相手を深く愛しているからこそ、自分が側にいることで相手が不幸になる現実に耐えられないのだ。トーマの劣等感も、セリアの焦燥も、すべては相手を大切に想うがゆえの苦しみだった。


(……なんて、不器用なの)


 相手のためを思って言葉を飲み込み、痛みを隠し、一番欲しいはずの温もりを自分から遠ざけようとしている。

 その独りよがりな優しさが、結果としてお互いを最も深く切り裂いていることに、当事者の彼らは気づいていない。


 莉子は、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ。

 彼女の脳裏には、昼間に立ち寄った防寒具店で見つけた、あのマフラーが浮かんでいた。


『私の親友に、すごく似合いそう』


 陽菜のあの言葉も、今のトーマとセリアと同じなのだ。

 相手を想いながら、相手の幸せを願って、それでも自分は身を引くしかないと思い込んでいる。


(そんなことがしたいわけじゃない……。私はただ、陽菜と一緒にいたいだけなのに……)


 莉子の唇から、かすかな吐息が漏れた。


 この窒息しそうなほどのすれ違いを前にして、自分には何ができるのか。ただ力ずくで引き離そうとするグレイたちを倒せば、彼らは幸せになれるのか。

 その答えは、まだ深い霧の中にあった。

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