第11話 ④
店を出ると、再び容赦のない北の風が莉子たちの身体を打った。
店主によって丁寧に紙に包まれた赤いマフラーを抱きかかえるようにして、莉子は俯きがちに石畳を歩いていた。
陽菜が残した見えない温もりと、突き放された痛み。
二つの感情が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、ひどく呼吸が苦しい。今すぐ走り出してあの羅針盤が指す場所へ向かいたい衝動と、いざ再会した時、彼女にどんな顔をして、どんな言葉を掛ければいいのか分からないという恐怖が、莉子の足を重くしていた。
「……莉子さん、大丈夫ですか? なんだか顔色が……」
「平気よ。少し、風が冷たいだけ」
心配そうに覗き込んでくるミーシャに、莉子は首を横に振って見せた。
大通りは相変わらずの人混みだったが、一行が街の中央広場へ差し掛かろうとした、その時だった。
ふと、前方から波が引くように人々のざわめきが遠ざかり、奇妙な空白が生まれた。
道行く商人や町人たちが、怯えたように足を止め、道の両端へと道を譲るように下がっていく。
その空白の先に、数人の男たちが静かに立ち塞がっていた。
柄の悪いならず者でも、街の衛兵でもない。
彼らは全員、寒さを微塵も通さないであろう上質で分厚い揃いの外套を羽織っていた。その胸元には、精緻な意匠が施された銀の留め具が鈍く光り、身動きするたびに外套の裾から機能的な鎖帷子が覗く。
整然と隊列を組んで退路を塞ぐその様は、暴力というよりは冷徹な業務を遂行するまさにプロの風格だった。
莉子の前を歩いていたセリアが、息を呑んで足を止めた。
男たちの中心から、白髪交じりの初老の騎士が一歩前に出る。彼はセリアの姿を認めると、深く、恭しく一礼した。
「——お迎えに上がりました、お嬢様」
「グレイ……」
セリアの震える声に、莉子は彼らが何者であるかを瞬時に悟った。
セリアの家から放たれた私兵。それも、ただ金で雇われた荒くれ者ではなく、彼女の実家の権力と規律を体現するような精鋭たちだ。
「さあ、旦那様がお待ちです。そのようないたたまれないお姿で、これ以上我儘を仰ってはいけません」
老騎士グレイの声は穏やかでありながらも、その鋭い眼光には有無を言わさぬ厳しさを孕んでいた。
「待ってください! 彼女は……離しません」
弾かれたように前に出たのは、トーマだった。
セリアを背中で庇うように立ち塞がり、腰のナイフに手をかける。しかし、その手は微かに震えていた。
上質な防具に身を包み、長旅の疲労すら見せない私兵たち。
対してトーマの格好は庶民そのもの。まして、先ほどセリアに外套を買い与えたことで、自身の防寒すら満足にできない状態だった。己の身一つ守る余裕すらない青年と、いざとなれば国境を越えて軍隊のような人員を動かせるセリアの家の力。
誰も口には出さないが、その埋めようのない圧倒的な力の差が、冷たい石畳の上で残酷なほど浮き彫りにされていた。
「蛮勇は身を滅ぼしますぞ。……お退きなさい」
グレイが僅かに視線を動かした瞬間、背後に控えていた三人の兵士が無言のまま動いた。
抜刀すらせず、ただ体重を乗せた体当たりでトーマを排除しようと迫る。トーマがナイフを構えようとした、その刹那。
「——危ないですよ」
風が巻き起こった。
トーマの前に、いつの間にかミーシャが入り込んでいた。
迫る兵士の一人が放った腕を、ミーシャは柳のように柔らかく受け流す。そのまま相手の力の方向を少しだけずらし、足払いをかけるようにして地面に膝をつかせた。
残る二人が驚愕とともに柄に手をかけたが、ミーシャの動きの方が圧倒的に早い。彼女は武器を抜くこともなく、二人の手首と肘の関節を軽く打ち据え、刀を抜く前にその動きを完全に封じ込めた。
流れるような体術。
それは、相手を叩きのめすための暴力ではない。相手の逃げ道を塞がずに無力化する制圧術だった。
「……ほう」
グレイの目が鋭く細められた。
たった数秒の攻防。その老兵は後ろから静かに見つめるのみだったが、厳格な瞳は冷静にミーシャの動きを捉えている。
気は抜けない——。
莉子とヴィエラはいつでも動けるように静かに重心を落としていた。
一触即発の空気が場を満たす。
その張り詰めた静寂は、グレイの吐息とともに弛緩した。
「……なるほど。どうやら、優秀な護衛を雇われたご様子。今の我々では、少々分が悪いようですな」
グレイは片手を上げ、膝をついた部下たちを下がらせた。
ミーシャの実力を前にしても、彼に焦りや怒りの色は一切なかった。ただ冷徹に状況を計算し、最も合理的な判断を下しただけだ。
「今日はこれで引き下がりましょう。——ですが」
踵を返しかけたグレイは、冷ややかな視線をただ一人、トーマへ向けた。
「我々は、何度でも追いますよ。この北の地まで来られたように、どこへ逃げようとも」
「…………っ」
「お嬢様は、温かい暖炉の前で、安全に生きるべきお方だ。……あなたのような何も力を持たない者には、お嬢様を一生守り抜く力も、逃げ切る力もない」
トーマの顔が、引きつったように歪められる。
「愛だけで、彼女を幸せにはできない。……彼女の手を引く資格が自分にあるのか、よくお考えになることだ」
それだけを言い残し、私兵たちは波が引くように、雑踏の中へと姿を消していった。
後に残されたのは、ひどく冷たい風の音と、ざわめきを取り戻し始めた大通りの喧騒だけだった。
「トーマ……」
セリアが不安げに青年の袖を引く。
だが、トーマは何も答えることができなかった。彼の視線は、セリアが身にまとっている、自分がようやく買ってやれたばかりの外套へ落ちている。
愛している。誰よりも幸せにしたいと願っている。
けれど、ただ生きるための服一枚を買うのにすら苦労する自分の隣にいれば、彼女は一生、今日のような恐怖に怯え、泥の中を逃げ隠れしなければならない。
老騎士の残した冷酷な事実が、トーマの心を芯から凍りつかせていた。




