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第10話 ⑥ (陽菜視点)

 気絶して動かなくなった男を見下ろし、陽菜は静かに息を吐いた。

 

 足元を渦巻いていた影が、雪が溶けるようにスーッと地面に吸い込まれていく。

 直前までの冷え切った空気が嘘のように霧散し、部屋には瓦礫の散らかった部屋の澱んだ空気だけが戻ってきた。


 陽菜はゆっくりと振り返る。

 その視線の先では、アルトが呆けたように目を見開いたまま立ち尽くしていた。

 

 ずっと自分を脅かし、理不尽に踏みつけてきた大人の男が、この少女の手によって呆気なく打ち倒されたのだ。

 その事実が、まだアルトの頭の中でうまく処理しきれていないようだった。


「アルトくん、もう大丈夫だよ。この人は、もう二度と君の前には現れないから」


 陽菜が柔らかく微笑みながらそう告げると、アルトの顔にみるみるうちに安堵の色が広がった。

 

 そして、彼の小さな目から、またぽろぽろと涙が零れ落ちる。

 しかしそれは、先ほどの打ちひしがれていたときの涙ではない。

 ずっと張り詰めていた重い鎖からようやく解放された——その事実を噛みしめるかのような、静かな涙だった。


「ありがとう……お姉さん、本当にありがとう……っ!」


 アルトは堪えきれなくなったように駆け寄ると、陽菜の服の裾をぎゅっと両手で掴み、その胸に顔を埋めた。

 小さな体が細かく震えている。陽菜は優しくその頭に手を伸ばし、柔らかな髪をそっと撫でた。


 その傍ら、陽菜は倒れている男に目を向けた。

 相変わらず白目を剥いて倒れたままだが、確かに生きている。

 脳裏をよぎるのは、商館の地下で自分が引き起こした惨劇の絵図。込み上げる激情のままに、陽菜は数多の人間を手に掛けた。


 あのときの自分と、今の自分と、何が違うのかは分からない。

 殺してしまった人たちが生き返るわけではない。それでも、目の前に倒れる男の微かに上下する胸の動きが、今はほんの少しだけ救いのように思えた。


 記憶を取り戻してからずっと、この力は呪いだと思っていた。誰かを傷つけ、大切なものを壊すだけの。

 でも、この手が小さな少年を守ったことも事実なのだ。そう思うと、冷たくなっていた指先に少しだけ熱が戻ってくるようだった。

 

 アルトを守ったことも、商館の人間たちを殺してしまったことも、どちらも本当で片方だけを見て見ぬふりはできない。

 でも、ただ怯えて縮こまっているよりは、この手で誰かの手を引いていたい。今はまだ、それくらいしか分からなかった。


「さっ、行こうか」


 陽菜が明るい声で告げると、アルトはきょとんとした顔を浮かべた。


「行くって……もしかして、お姉さん、付いてきてくれるの?」

「うん。乗りかかった船だしね。アルトくん一人だと不安だし。……それに」

「……?」

「ううん、なんでもない」


 眩しいものを見るような顔に、アルトは余計に不思議そうな表情を浮かべていたが、陽菜は小さく笑って誤魔化した。

 

 まだ、心の整理が終わったわけではない。

 魔族の身体に人間の心が宿った自分がどうあるべきか、まだ答えは出ていない。


 ——けれど、ただ怯えて立ち止まるのはもう終わりだ。今は誰かの願いを守るために歩き出してみよう。

 この少年の、泥臭くて真っ直ぐな旅路に寄り添うこと。今の陽菜にできるのは、ただそれだけだった。


「さあ、行こう。ここから北へ向かえばいいんだよね。じゃあ絶対寒いじゃん……真冬だし」

「うん! まずは途中の街で温かい服を買わなくちゃね……あ。僕お金ないや……」

「ふふっ、少しだけならあるよ。どこか途中の街に着いたら買ってあげる」


 他愛のない会話を交わしながら、陽菜がそっと手を差し出す。

 アルトは一瞬だけ照れくさそうにはにかんだ後、その小さな手で陽菜の手をしっかりと握り返した。


 軋む扉を開け放ち、薄暗い安宿を後にする。

 外に出ると、宿場町の空はすっかり白み始めていた。

 冷たい石畳の街並みを、雲間から差し込む淡い朝の光が優しく照らし出している。身を切るような冷涼な風が吹き抜けたが、決して不快ではなかった。むしろ、淀んでいた胸の奥をすっきりと洗い流してくれるような、清々しい冷たさだった。


 ふと、陽菜は少し前まで働いていた、あの店の方角を振り返る。

 何よりも大切な親友と過ごした温かい場所。にも関わらず、彼女と向き合うことを恐れて逃げ出してきた場所。

 

 いつか、また向き合えるときが来るだろうか。もう一度会えたら、何を話すだろうか——。

 

 考えかけて、陽菜はふいに足元が冷えるのを感じた。

 この手で人を殺したと知ったら、あの子はどんな顔をするだろう。

 今は前を向くしかない。そう決意したはずなのに、心の底にはずっと後ろ暗い感情が澱となって沈んでいる。

 怖い——。いつか再会したときに、この手を血で汚した自分を彼女はどんな目で見るのだろうか。


「お姉さん?」

「……ああ、ごめんごめん。ようし、それじゃあ、しゅっぱーつ!」


 北方の国境地帯、ゼノア鉱山。

 そこへ至る道のりがどれほど過酷で、どれほど遠いのか、今はまだ分からない。

 けれど、しっかりと手を繋ぎ、朝焼けに染まる街道を歩き出した二人の背中は、少しだけ確かな熱を帯びていた。

2026/07/31

これにて第10話完結となります。


誠に申し訳ありませんが、書き溜めのお時間をいただきます。

次回更新は8/2(日)を予定しております。


どうぞよろしくお願いいたします。

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