第10話 ⑤ (陽菜視点)
宿場町の裏通りにある、薄暗くカビ臭い安宿の一室。
軋む扉をアルトが押し開けると、そこには冷たい石の床に粗末な椅子を置き、苛立たしげに指先で肘掛けを叩いている男の姿があった。
男は扉の音にゆっくりと顔を向けた。
アルトの姿を認めると、その指先の動きを止め、ひどく平坦で、感情の起伏を一切感じさせない声で口を開いた。
「……遅かったな」
底冷えするような、冷酷な響き。
路地裏でアルトを痛めつけていた時と何一つ変わらない、他者をゴミか道具としか思っていない人間の目だった。
男はアルトの背後に寄り添う陽菜を一瞥したが、興味も警戒も抱かなかったように、すぐに視線を外した。
「頼んでいた品は、持ってきたんだろうな」
男が淡々と手を差し出す。
アルトは震える手を必死に拳に握り込み、恐怖を振り払うように男を強く睨み返した。
「……持ってない」
「何だと?」
「あなたが僕に盗ませようとしてたのは、僕を奴隷にするための首輪だった。僕はもう、あなたの言いなりになんてならない……っ」
アルトの絞り出すような糾弾を聞いても、男の表情は氷のように無機質なままだった。
焦りも、図星を突かれた動揺もない。ただ、舌打ちを一つ落とす。
「……あの商館の豚め。余計な口を叩いたようだな」
言い訳をするでもなく、あっさりと自分が騙していたことを認めた。
人を人とも思わないその態度に、アルトはギリッと歯を食いしばる。
「これからは、僕の足で母さんを——」
「調子に乗ってんじゃねえぞ、クソガキがっ!」
アルトの言葉を遮り、ガァンッ、と手近なテーブルを蹴り上げる音が大きく響く。
それは、一瞬前まで無表情だった男の見せる荒々しい本性だった。
その恐ろしい剣幕に、アルトの身がびくっと竦む。
男は深く、心底つまらなそうにため息をついた。
そして、椅子の背もたれからゆっくりと身体を起こす。
「自分から首輪をつけに行く手間が省けて良いと思っていたが……。所詮は半魔のガキか。言いなりにならないのであれば、いっそ殺すまでだ」
男の手には、いつの間にか抜身の小刀が握られていた。
その目には狂気の色が浮かび、アルトの命を狩らんとする明確な殺意を放っている。
「次に手ぶらで戻ってきたら目玉を抉る。……私はそう言ったはずだが?」
男が音もなく一歩を踏み出し、無造作に刃を振り上げる。
死の気配が部屋を覆う。アルトは息を呑んだが、震える足に力を込め、決して背を向けて逃げ出そうとはしなかった。
その真っ直ぐな瞳を、無慈悲な刃が貫こうとした、その瞬間。
「……そこまでよ」
男と少年の間に、静かに陽菜が立ち塞がった。
◇
陽菜が突如として間に割って入ったものの、男の腕が止まることはなかった。
その凶刃は躊躇うことなく彼女の華奢な肩口へと振り下ろされる。
「お姉さんっ!」
アルトの悲鳴が響く。
しかし、陽菜は一歩も引かなかった。その目はただ静かに、凶器を握る男を見据えていた。
直後――空気を叩き潰すような重低音と共に、陽菜の足元から放射状に膨れ上がった影が濁流のように男を襲った。
男の手にあった小刀が、陽菜の肌に触れるよりも早く、見えない壁に激突したように根元からへし折れ、砕け散る。
「え……」
間抜けな声が漏れたのも束の間、男の身体は紙切れのように宙を舞っていた。
彼はそのまま部屋の奥へと吹き飛ばされ、背中から壁に激突する。
ガシャァァンッ!と、古びたテーブルと椅子が巻き添えになって木端微塵に砕け散った。
土埃が舞い、軋んだ天井からパラパラと木屑が落ちてくる。
何が起きたのか理解できないまま、男は瓦礫の中で血を吐き、激痛に顔を歪めた。
砂煙が晴れた先。
陽菜は先ほどから一歩も動いていなかった。ただ、彼女の周囲の床だけが、凄まじい重圧に押し潰されたように円状にひび割れている。
「……ッ、が、あ……っ」
全身の骨が軋む痛みに呻きながら、男は必死に身を起こそうとする。しかし、足に力が入らない。
陽菜がゆっくりと、男に向かって一歩を踏み出した。
ギリッ、と彼女の足元で石の床が悲鳴を上げる。
たったそれだけで、部屋の空気が急激に冷え込んだ。
息が詰まるような殺気――。
男は悟った。目の前の少女にとって、自分などいつでも踏み潰せる虫けらと同義なのだと。
どんなに喚いても、暴れても、絶対に敵うはずがない。
そのどうしようもない事実が、男の心から急速に熱を奪っていく。
「もう、この子に関わらないで」
陽菜は瓦礫に埋もれる男を見下ろし、はっきりと告げた。
「二度と彼の前に現れないと誓うなら、ここから生かして帰してあげる。……どうするの?」
抑揚のない問いかけ。
瓦礫の中にへたり込んだ男は、全身の骨が軋む痛みに顔を引き攣らせながらも、陽菜の瞳に宿る静かな圧にひゅっと息を呑んだ。
逆らえば、本当に殺される。いや、そもそも逆らうことすら許されない。
その本能的な理解が、男の矮小なプライドを粉々に砕き去っていた。
男はガチガチと歯を鳴らし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も首を横に振った。
「ひっ……あ、ぁ……」
喉の奥から空気が漏れるような、情けない音を出した直後。
極度の恐怖と、全身を強く打ち付けた肉体的なダメージに、ついに限界が来たのだろう。
男は白目を剥き、糸が切れたようにがくりと首を垂れて瓦礫の中に突っ伏した。




