第10話 ④ (陽菜視点)
アルトは忌々しげに顔を歪める。
「母さんのことを捨ててさ。……母さん、ずっと一人で働いてたんだ。朝から夜まで泥だらけになって……手もボロボロで。自分のご飯も僕にくれるから、すごく痩せてた。……でも、僕の前じゃ絶対に弱音を吐かなかった。僕がご飯を食べてると、いつもニコニコしててさ」
かつての記憶をなぞるように、少年の声が微かに震える。
「でも、村の大人たちは違った。僕のこの角を見て、いつも嫌そうな顔をしてた。化け物とか、呪われてるとか言って。……それでも、母さんはいつでも味方だった。石を投げられても、僕の手をぎゅっと握って、『この子は私の大事な子だ』って庇ってくれたんだ」
陽菜は息を呑んだ。
人間と魔族。決して交わることのないはずの境界線で、その母親はどれほどの孤独と戦いながら、我が子への愛を貫いたのだろうか。
「だけど、ある日……村に奴隷の商人が来て。村の人が、僕のことを教えちゃったんだ。珍しい半魔だから高く売れるぞって。……みんな、僕のことが邪魔だったんだと思う」
「そんな……」
「大人たちが僕を捕まえて、縄で縛ろうとした。そしたら……母さんが、地面に膝をついて何度も頭を下げたんだ。僕の代わりに、私を連れてってくれって」
アルトの声が、涙を堪えるように激しく裏返る。
「私はいっぱい働けるから、この子は見逃してって……おでこから血が出るくらい、何度も、何度も地面にこすりつけて。商人はそれならって言って、母さんを馬車に乗せた。……でも、嘘だったんだ」
ギリッと、アルトが強く歯を食いしばる音がした。
彼の小さな拳が、白くなるほど強く握りしめられている。
「母さんが馬車に入れられた後、あいつら、見逃すふりをして僕のことも捕まえようとした。……僕は、夢中で逃げた。母さんが助けてくれたのに、捕まったら全部無駄になっちゃうから。ずっと、ずっと必死に逃げ続けて、気づいたらこんな遠くの街まで来てた」
ついに堪えきれなくなった涙が、その小さな頬を伝って冷たい床に落ちた。
「でも、僕一人じゃ人間の街で生きていくのなんて、無理だった。角を隠して、ゴミを漁って……お腹が空いて死にそうで。気付いたら、お店のパンを盗んでた」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭おうともせず、アルトは顔を歪めて泣きじゃくった。
「母さんが助けてくれた僕なのに……生きるために泥棒したり、あの男の言いなりになるしかなくて。……僕、どんどん汚いことばっかりするようになっちゃって……っ」
生き延びるために手を汚さざるを得なかった少年の、痛ましいほどの罪悪感。
それは、己の正体を呪い、逃げるように大切な人の元を去った陽菜の姿とも痛いほどに重なっていた。
「……そんなことないよ」
陽菜は静かに首を振り、アルトの泥と涙で汚れた頬にそっと手を伸ばした。
ひんやりとした指先で、少年の涙を拭う。
「アルトくんは汚くなんかない。お母さんが命がけで繋いでくれた命を、必死に守り抜いたんだよ。……お母さんはきっと、あなたが生きてくれていることが一番嬉しいはずだから」
一体どの口が言うんだ——。陽菜はふと、自分の手を見つめた。
あの地下で人が何人も死んだ。自分が殺したのだ。アルトは何も悪くない、彼の手は汚れていない、そんなのは当たり前だ。では自分は……。
込み上げる感情に蓋をするように、陽菜は小さく首を振った。
今はただ、目の前のこの子のことだけ考えていたかった。
「……へへへ」
「ど、どうしたの?」
思いがけず笑みをこぼした少年に、陽菜は目を丸くした。
「ううん、ごめんなさい。母さんも似たようなこと言ってたなって。……以前ね、聞いたことがあるんだ。『僕なんていない方が良かったんじゃないか』って」
アルトは少しだけ鼻をすすり、自分の額にそっと触れた。
「そしたら母さん、すっごく怒って、僕のおでこをピンって弾いたんだ。『あんたがいない人生なんて、退屈で死んじゃうわ』って」
その母親の言葉が、陽菜の脳裏で、大切な親友の声と重なった。
日本にいた頃からずっと、そしてこの異世界に来て陽菜が魔族としての本性を現してからも、少しも変わらない笑顔で陽菜に手を差し伸べ続けてくれた彼女。
浄夜祭の夜に陽菜が魔王の力を暴走させたときでさえ、それを恐れるどころか、その身を挺して陽菜を抱きしめ、止めようとしてくれたではないか。
(もしかして私を化け物だって決めていたのは……)
その先を、陽菜は考えないようにした。今それを認めてしまったら、自分がここまで逃げてきた時間の、行き場がなくなってしまう気がしたから。
アルトの母親の強さに触れ、陽菜は己の臆病さをひしひしと自覚した。
莉子は、陽菜が魔族であろうと関係なく、全てを受け入れてくれていた。
それなのに、陽菜は「いつかこの力が莉子を傷つけるから」というもっともらしい言い訳を盾にしていただけなのかもしれない。
一番大切な繋がりを、自分から手放してしまった。
その取り返しのつかない喪失感が、今になって陽菜の胸を容赦なく抉っている。
「……ゼノア鉱山」
アルトの声が、静まり返った廃屋に響いた。
陽菜が顔を上げると、少年は袖で乱暴に涙を拭い、両手で自らの頬をパンッと強く叩いていた。
赤くなった頬。まだ目元は潤んでいるが、その瞳からは先ほどまでの怯えや絶望が綺麗に消え去り、代わりに強い意志の光が宿っていた。
「僕、行くよ。その場所に」
「え……」
「あの男が『母さんの居場所を知ってる』って言ったのは、本当だった。首輪のことは騙されたけど、この手がかりは本物だ。……母さんがどんな目に遭ってるか分からない。もう、生きてないかもしれない。でも、それでも」
アルトは赤黒い染みのついた羊皮紙を大切に折り畳み、胸の奥へとしまった。
真っ直ぐに陽菜を見据えるその小さな身体には、どれほど打ちのめされても決して折れることのない、揺るぎない強さがあった。
「僕の命は、母さんがくれたものだから。……母さんがどこにいても、僕が絶対に迎えに行くんだ」
自分がとうの昔に失ってしまった、泥臭くも美しい輝き。
どんな過酷な現実が待っていようと、一番大切な人に会うためなら、躊躇いなく茨の道へと足を踏み出そうとする少年の姿。
陽菜は、その真っ直ぐな眩しさに息を呑んだ。
それはまるで、自分の中に燻っていた諦念が音を立てて崩れ去っていくようだった。
嫌な感覚なんかじゃ、全然ない。
むしろ久しぶりに、心が軽くなったような気さえする。
陽菜はアルトの姿に口元が綻ぶのを感じた。
「そしたら、この街を出る前にひとつだけきちんと終わらせておかないとね」
「あっ……」
その言葉を聞いた瞬間、アルトの肩がビクッと跳ねた。その瞳に怯えの色が走る。
母親の手がかりのためと言って彼を騙し、暴力による恐怖で心を縛り付けていた男。
陽菜は、その震える背中を見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「これからすごく遠い場所へ行くのに、その怯えを背負ったままじゃ、きっといつか足枷になる。……逃げるように街を出たら、アルトくんはずっと後ろを振り返りながら生きていくことになっちゃうから」
それは、陽菜自身の後悔でもあった。
自分が傷つくことを恐れ、莉子と向き合うことから逃げ出した陽菜は、その後もずっと過去の幻影に怯え、後悔に苛まれ続けている。
だからこそ、前を向いて歩き出そうとしているこの少年に、同じ轍を踏ませたくはなかった。
「……大丈夫。私も一緒にいるから」
陽菜が彼と同じ目線にしゃがみ込み、その目を真っ直ぐに見つめて微笑みかける。
アルトはしばらくの間、躊躇うようにうつむいていたが、やがて陽菜の手をぎゅっと握り返し、しっかりと頷いた。




