第10話 ② (陽菜視点)
陽菜は握り返された手の温もりを感じながら、アルトの身体をゆっくりと引き起こした。
ひんやりとした地下倉庫には、むせ返るような生臭い鉄の匂いが立ち込めている。
一刻も早くこの惨状から彼を遠ざけなければならない。陽菜がアルトの手を引いて出口へと歩き出そうとした、その時だった。
ふと、血に沈み事切れた商館の主の足元に、何かが落ちているのが目に入った。
それは男の懐から滑り落ちたらしい、二つ折りにされた数枚の羊皮紙だった。縁のあたりが、ゆっくりと広がる血だまりに触れて赤く染まりかけている。
陽菜は足を止め、無言で身を屈めた。
血だまりを避けながら、その紙束を拾い上げる。
何気なく開いたページに記されていたのは、無機質な数字と単語の羅列だった。
年齢、性別、種族の特徴。そして、その横に記された「出荷先」と銘打たれた地名と金額。
(これって……)
それは、この商館が裏で取り扱っている商品——すなわち、奴隷たちの非合法な取引記録だった。
直近の日付が記された欄を視線が滑る。そこには、魔族や獣人、そして半魔といった記述が淡々と並んでいた。
もしやと思い目を凝らした先、とある一行の記述に、陽菜の呼吸が微かに止まった。
「お姉さん、それ……」
不意に、横からアルトの声がした。
陽菜が立ち止まったのを不思議に思い、彼もまたその羊皮紙を覗き込もうと身を乗り出してきたのだ。
過酷な生活の中で培われた鋭い勘によるものか、その紙が何らかの重要な記録であるように感じられるらしい。
「……もしかして、母さんのことが、書いてあるの?」
「アルトくん、これは……」
陽菜が言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間だった。
「おいっ! 下で何の騒ぎだ!?」
「主様! ご無事ですか!」
地下倉庫へと続く階段の上から、複数の野太い声が降ってきた。
ガチャガチャと金属の鎧が擦れる音と、石の階段を慌ただしく駆け下りてくる重い足音。どうやら、先ほどの狂乱の悲鳴を聞きつけた一階の警備たちが異変に気づき、応援に駆けつけたらしい。
足音の数からして、一人や二人ではない。
仮に十人と来ても今の陽菜なら物の数ではないが、これ以上無意味な殺人を重ねるつもりも、その悍ましい光景をこれ以上アルトの目に焼き付けるつもりもなかった。
陽菜は手元の羊皮紙を素早く折り畳み、外套のポケットへとねじ込んだ。
「……今は逃げよう」
短く告げると、陽菜はアルトの手をきゅっと強く握り直した。
アルトもこくりと頷く。
階段から、松明の明かりを持った男たちがなだれ込んでくる。
彼らが目の前の惨状に阿鼻叫喚の声を上げたときには、すでに陽菜とアルトの姿はそこにはなかった。
陽菜は再び影の魔法で互いの気配を周囲に溶け込ませると、混乱の極みにある男たちの脇を音もなくすり抜け、階段を駆け上がった。
見張りのいなくなった商館の裏口から、外へと飛び出す。
身を切るような冷たい夜風が、地下の淀んだ空気を一瞬で洗い流してくれた。
二人は暗い路地裏を、ただひたすらに走った。
表通りの喧騒からは遠ざかり、街の灯りが届かない貧民街のさらに奥深くへ。
アルトの息が上がり、その小さな足がもつれそうになるのを、陽菜が手を引いて支えながら進む。
どれくらい走っただろうか。やがて、屋根の半分が崩れ落ち、長い間人が立ち入った形跡のない廃屋の前にたどり着いた。
「ここまで来れば……っ、大丈夫……」
アルトが肩で激しく息をしながら、崩れかけた木扉を押し開ける。
中は埃っぽく、隙間風が吹き込んでいたが、身を隠すには十分な場所だった。
二人は廃屋の奥の、月明かりだけが微かに差し込む壁際にへたり込んだ。
冷たい床の感触が、今ここが現実であることを教えてくれる。
「お姉さん……」
ようやく呼吸を整えたアルトが、暗がりの中で陽菜を見上げた。
その瞳は、恐怖や疲労よりも、もっと強い渇望に満ちている。
「さっきの紙。見てもいいかな」
真っ直ぐな言葉。
陽菜は小さく頷き、ポケットから血の滲んだ羊皮紙を取り出した。




