第10話 ① (陽菜視点)
突如目の前の少女を中心に深い影が広がっていく異様な光景に、用心棒の男は思わず情けない悲鳴を漏らした。
震える手で握りしめた剣の柄が、じっとりと嫌な汗で濡れている。視界を埋め尽くすように這い寄ってくる真っ黒な影と、骨の髄まで凍りつくような異常な冷気。
本能が死を告げている。このままではあの得体の知れない闇に呑み込まれ、跡形もなく消されてしまう。
そう確信し、男が硬直した身体に鞭打って逃げ出そうとした——その瞬間だった。
ふっと、肌を刺していた冷気が嘘のように霧散した。
床を這っていた不気味な影も、まるで幻であったかのようにスッと元の大きさに縮んでいく。倉庫を照らす魔力灯の光も、再び安定した輝きを取り戻していた。
「……あ?」
男は拍子抜けしたように瞬きをした。
前方を見据えると、そこには黒いフードを被った少女が立っている。だが、先程までのような禍々しい威圧感は欠片もない。
ただの小娘が、使えもしない魔法を繰り出そうとして失敗したのは明白だった。
——なんだ、ただのハッタリか。
男の胸の内に安堵が広がり、次いで、一瞬でも怯えさせられたことへの猛烈な怒りが込み上げてきた。
「脅かしやがって……影絵遊びのつもりかよ!」
男は忌々しげに床へ唾を吐き捨てた。
隣に立つ仲間の用心棒たちも、気まずそうに顔を見合わせている。皆、同じようにしょうもないハッタリに騙されていたのだ。
「見掛け倒しが。大人しくしてりゃあ、痛い目を見ずに済んだものを!」
男は下卑た笑いを浮かべ、剣を高く振りかぶった。
少女は逃げようともせず、ただ棒立ちになっている。恐怖で足が竦んでいるのだろう。
男は一気に距離を詰め、その無防備な肩口に向けて、躊躇いなく刃を振り下ろした。
手首に、肉と骨を断つ確かな手応えが伝わる。
生温かい血の飛沫が男の頬に散った。
「ははっ、どうだ! 思い知ったか——」
男が勝利を確信し、口元を歪めたその時。
「お、お前、何をしてるんだっ!」
背後から、商館の主の悲鳴にも似た金切り声が響き渡った。
◇
商館の主の声に、陽菜は静かに瞬きをした。
彼女は一歩も動いていない。剣を振り下ろした男は、陽菜から数メートルも離れた場所——正確には隣に立っていた仲間の用心棒に向けて、その刃を深々と突き立てていた。
「ぐあぁぁっ……! て、てめえ、いきなり何を……っ!」
「え……? お、俺は……」
斬られた男が血を吐きながら崩れ落ちる。
剣を振り下ろした男は、自分の手にある刃と、血だまりに倒れ伏す仲間を交互に見比べ、呆然と立ち尽くしていた。
それが、陽菜の放った魔王としての力だった。
炎や氷で物理的に破壊するのではない。対象の認識そのものを歪め、視覚から本能に至るまでを完全に掌握し、狂わせる。
彼らの目に、本物の陽菜の姿はもはや映っていない。代わりに隣に立つ仲間が、「怯えて棒立ちになっている無防備な少女」に見えていたはずだ。
膨大な魔力と圧倒的な恐怖を叩き込まれた直後、ふっとそれが消え去ったことで生じた安堵。
その精神の隙間を、陽菜の闇は音もなく侵食し、塗り替えていたのである。
「う、うわあああああっ!」
突如として、別の用心棒が狂ったように叫び声を上げ、自身の剣をデタラメに振り回し始めた。
虚ろになった彼の目には一体どんな景色が映っているのか。その狂乱は水面に落ちた波紋のように、次々と他の用心棒たちにも伝播していく。
「や、やめろ! 俺だ!」
「くそっ、化け物め、近寄るなっ!」
怒号と悲鳴。肉を裂く鈍い音。
先程まで弱者を囲んで嘲笑っていた男たちが、今は互いを敵と見なし、血眼になって殺し合っている。
誰一人として陽菜たちに近づく者はいない。皆、自分自身の脳が作り出した虚影と戦い、次々と自滅していく。
「ひ、ひぃぃああああっ!! く、くるなぁ——ぐぼぉっ」
やがて、その凶刃は館の主の元へと届く。
すでに喉笛に小刀を突き刺され虫の息になった用心棒が、その目だけを妖しげに光らせたまま、自身の雇い主に斬り掛かったのだ。
欲望のままに肥え太った身体では逃げることも出来ず、支配の権化は醜い断末魔と共に血の海に沈んだ。
そして、その止めを刺した男もヒューヒューと声にならない呻きを上げながら地面に倒れ、そのまま動かなくなった。
陽菜は、その血みどろの光景をただ冷ややかに見つめていた。
十数人いた悪徒たちは揃って恐怖に顔を歪めたまま絶命し、辺りは静寂に包まれている。
これが、魔族の頂点に立つ者の力。人間の精神を弄び、いとも容易く崩壊させる残酷な業。
血の一滴も浴びず、綺麗なままの自分の身体を見回せば、思わず乾いた笑いが込み上げた。
これが化け物でなくて何だというのか——。
陽菜は振り返り、床にへたり込んだまま硬直しているアルトへと視線を向けた。
「アルトくん」
静かな声で呼びかける。
アルトがびくっと肩を震わせ、陽菜を見上げた。
その顔に浮かんでいるのは、目の前の惨劇に対する戸惑いと、信じられないものを見るような驚愕だった。
怖がられるかもしれない。
それでも陽菜は振り払われても構わないと、彼に向けてそっと手を差し出した。
「……もう、大丈夫だよ」
アルトは差し出された陽菜の白い手を、瞬きもせずに見つめている。
怯えを孕んだ瞳を向けていた彼は、床に転がっていた鉄の首輪から目を逸らすと、やがて何かを決意したように強く唇を噛んだ。
泥にまみれた小さな手は、陽菜の手をしっかりと握り返した。




