第9話 ③ (陽菜視点)
すっかり陽の落ちた宿場町は、昼間の閑散とした空気とは打って変わり、別の顔を見せ始めていた。
表通りの酒場からは酔客の喧騒が漏れ聞こえ、その光の届かない裏路地には、街の澱みのような静寂が横たわっている。
アルトの先導で、二人は迷路のように入り組んだ路地を音もなく進んでいた。
「……ここだよ。この商館の地下に、男が欲しがってる物がある」
アルトが足を止め、路地裏の物陰から指差した先には、周囲の建物より一回り大きな石造りの商館が建っていた。
表向きは真っ当な商家なのだろうが、裏口に立つ屈強な見張りの男たちの姿や、周囲に漂うきなくさい空気から、ここが裏社会の拠点の一つであることは明白だった。
「いつもなら、あそこの木箱を足場にして塀を越えるんだけど……今日は見張りが二人もいる」
アルトは壁に背を預けながら、小さく舌打ちをした。
彼の横顔には、先ほどまで路地裏で殴られて震えていた弱々しい少年の面影はない。
その尖った瞳は、生きるために夜の街を這いずり回ってきた野良猫のような、したたかな光を帯びていた。
「石を投げて気を逸らすしかないか。でも、それだと中に入ってからが……」
「待って」
足元の小石を拾い上げようとしたアルトの腕を、陽菜がそっと掴んだ。
不思議そうな顔をする少年に、陽菜はフードの奥から一つ瞬きをして見せる。
「そんなことしなくても、大丈夫だよ」
陽菜はアルトの手を引いて、商館を囲む高い石塀の、一番影が濃く落ちている場所へと音もなく歩み寄った。
「えっ、ちょ、お姉さん……っ」
見つかってしまうと慌てるアルトを制し、陽菜は静かに呼吸を整える。
自分の中に眠る黒く淀んだ力の一部を、ほんの少しだけ呼び起こした。
——足元に落ちた濃い影が、意志を持っているかのように微かに揺らいだ。
「これ……」
アルトが息を呑む。
二人の周囲に広がる夜の闇が、物理的なベールのようにふわりと持ち上がり、彼らの輪郭を周囲の風景へと溶け込ませたのだ。
光を捻じ曲げ、音を吸い込む、魔族特有の隠密の術。
派手な魔法などではないが、二人の姿はまるで霧に包まれたように存在感が薄くなった。
「……声は出さないでね」
陽菜が耳元で囁くと同時に、アルトの身体がふわりと宙に浮いた。
陽菜が彼を片腕で抱え上げたのだ。アルトより背が高いとはいえ、見た目は華奢な少女。
その細腕はアルトの体重などまるで感じていないかのように、軽々と彼を抱え上げている。
トッ、と。
陽菜は助走すらせず、その場で軽く地面を蹴った。
たったそれだけで、二人の身体は重力から解放されたように跳ね上がり、見張りの頭上を音もなく飛び越え、数メートルはある石塀を軽々と越えてみせた。
「——!?」
アルトは声にならない驚きに目を丸くしたまま、陽菜の腕の中で硬直していた。
塀の内側、中庭の暗がりに音もなく着地する。枯れ葉一枚踏み砕く音すら鳴らない、完璧な潜入だった。
陽菜がそっとアルトを降ろすと、彼は少し顔を赤くしつつも、信じられないものを見るような目で陽菜と石塀を交互に見比べた。
「びっくりした……。けどすごいや。お姉さんは一体……?」
興奮を押し殺したような、純粋な感嘆の声。目の前の少年は瞳をきらきらと輝かせている。
その言葉に、陽菜の心臓が小さく跳ねた。
「……私の魔法、怖くないの?」
「ううん、全然! これなら、絶対に見つからずに地下まで行けるよ!」
アルトは頼もしい相棒を得たと言わんばかりに、にかっと笑みを浮かべた。
その笑顔に、陽菜の胸の奥で抱え込んでいた昏い感情が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
誰かを傷つけるためでも、何かを壊すためでもなく。
ただ目の前の彼を助けるために、この力が役に立っている。
その事実が、自己嫌悪で冷え切っていた陽菜の心に、小さな熱を与えてくれていた。
「地下への入り口はあっちみたいだ。ついてきて」
アルトの案内に従い、二人は商館の裏手へと身を潜めながら進む。
陽菜の影の魔法が周囲の音を吸い込んでくれるとはいえ、完全に透明になるわけではない。
だがアルトの勘と経験によるものか、二人は巡回する警備の目をスルスルと掻い潜っていく。
「ストップ」
曲がり角の寸前で、アルトが陽菜の服の裾を引く。
直後、二人が隠れているすぐそばを、松明を持った警備の男が通り過ぎていった。
(この子、思ったよりずっと冷静なんだ……)
陽菜は息を潜めながら、前を歩く小さな背中を見つめた。
こんな理不尽で過酷な環境に置かれながら、彼は決して運命を呪うだけで立ち止まったりはしない。
自分の持てる知識と機転を総動員して、必死に今日を生き延びているのだ。
「よし、今のうちだ」
警備が遠ざかった隙を突き、アルトが素早く中庭を横切る。
たどり着いたのは、重厚な鉄格子の嵌まった地下への扉だった。
本来なら鍵が掛かっているはずだが、アルトが鉄格子の隙間から細い針金のようなものを差し込み、何度か手首を捻ると、カチャリという小さな音と共に錠前が外れた。
「開いた。ここまではあの男に聞いた通りみたいだ……。多分、ここから先は目的の倉庫の手前まで一本道のはずだよ」
誇らしげに振り返るアルトに、陽菜も思わず口元を綻ばせた。
「ふふっ。アルトくんって、すごく器用なんだね」
「これくらいできないと、この街じゃ生きていけないからね。……お姉さんのおかげで、一番厄介な塀を越えられたから、今日はすごく楽だよ」
暗がりの中で、二人はまるで秘密の冒険を共有する悪戯っ子のように、小さく笑い合った。
ほんの数十分前まで、互いに絶望と罪悪感の底に沈んでいたのが嘘のようだ。
アルトの持つ不思議な前向きさが、陽菜の心の重石を取り払ってくれたかのようだった。
ぎい、と錆びた音を立てて地下への扉を開く。
カビと土の匂いが混じった冷たい空気が、二人の頬を撫でた。
「行こう。この奥にある物を手に入れれば……僕は、きっと……」
アルトがぎゅっと拳を握りしめ、暗い階段の下を見据える。
その瞳の奥にある願いの正体を、陽菜はまだ知らない。
しかし、何があってもこの少年の夢が無事に叶ってほしいと、陽菜は強く願っていた。
この先に、絶望の罠が待ち受けていることなど、二人は知る由もなかった。




