第9話 ② (陽菜視点)
「……っ、うぅ……」
アルトがゆっくりと身を起こそうとする。
しかし、先ほど投げ出された際に割れた空き瓶の破片が掌を掠めていたらしい。彼の手の端から、赤い血がたらたらと石畳に滴り落ちていた。
(——見なかったことにしろ)
陽菜の脳内で、理性が冷たく警告する。
あれは彼ら自身の問題だ。自分が介入すれば事態をややこしくするだけだし、何より、あの少年に自分の顔を見られることだけは絶対に避けなければならない。
これ以上、あの日の罪悪感を直視したくなかった。
早くここから離れよう。踵を返し、今度こそこの路地裏から逃げ出そうとした。
——しかし。
気がつけば、陽菜の足は、アルトのいる物陰へと向かって歩みを進めていた。
(なんで……)
自分でも分からない。逃げ出したいのに、血を流して震える小さな背中を、どうしても見捨てることができなかった。
せめてこの傷だけ。怪我だけ塞いだら、すぐに立ち去ろう。
陽菜は深く被ったフードの端をきゅっと掴み、極力顔が見えないように俯きながら、アルトの傍らに音もなく膝をついた。
「え……?」
突然現れた影に、アルトがびくっと身体を強張らせる。
陽菜は無言のまま、少年の血のにじむ手首をそっと掴んだ。
アルトが何かを言いかけるよりも早く、陽菜の掌から黒く淀んだ、しかしひどく温かで優しい魔力の粒子がこぼれ落ちる。
その闇色の波紋が傷口を撫でると、パックリと開いていた皮膚が嘘のように塞がり、痛みもふっと消え去った。
「これ……魔法……?」
呆然と自分の手を見つめるアルト。
治療は終わった。もう用はない。
陽菜は少年の手を離すと、一言も発することなく、弾かれたように立ち上がる。
一刻も早くこの場から立ち去ろうと身を翻した——その刹那。
「あの」
背後から、細い声が陽菜を引き留めた。
無視して歩き出さなければならないのに、またしても足が動かない。
「……浄夜祭の時の、お姉さん、だよね」
その言葉に、陽菜の心臓が跳ねた。
バレていないはずだった。フードで顔は隠していたし、あの日、彼とはほんの一瞬目が合っただけだ。
なのに、少年は確信を持った声で、背を向ける陽菜の影に言葉を紡いだ。
「あの時……広場で、僕のこと……」
陽菜は息を呑んだ。
罵倒されてもおかしくない。助けてくれなかったと、化け物だと、石を投げられるかもしれない。
その覚悟で、陽菜はぎゅっと目を閉じ、震える拳を握りしめた。
「ごめんなさい」
しかし。
背後から降ってきたのは、憎悪でも怒りでもなく、掠れた謝罪の声だった。
「……え?」
「僕がヘマをして、お姉さんたちまで巻き込んじゃって……本当に、ごめんなさい」
「な、なんで……」
「お姉さんも、魔族なんでしょう?」
ゆっくりと振り返った陽菜の視線の先で、アルトは痛ましげに眉を下げ、気まずそうに俯いていた。
「……あの時、お姉さんも、すごく怖かったんでしょう。人間の街で、魔族だってバレるのが」
その言葉は、陽菜が想像していたどんな罵倒よりも鋭く胸の奥を貫いた。
「なんで私を魔族だと……。ううん、それを知っていながら、どうして責めないの……?」
いっそ責めてもらえた方が楽だった。
あのとき、大勢の人間たちから悪意を向けられていたアルトに寄り添えるのは、同じ魔族である陽菜だったはずなのに。
彼は陽菜の正体に気付きながら、助けを求めることも、逆に周囲に陽菜のことを告げ口して矛先を向けることもなく、甘んじて暴力を受け続けていたというのか。
「そもそも、あれは僕がお店のパンを盗んだのがきっかけだから。それに、見てたんだ。盗む少し前に、お姉さんともう一人のお姉さんが楽しそうにあのお店の前で話してるのを」
沢山ある露店の食べ物がどれも美味しそうで、半ば呆れる莉子の手を引いて無理やり連れ回した記憶が蘇る。
アルトの言う店では、温かいスープを買って、日本にいた頃の思い出を話したりしたっけ。
少年は眩しいものを見るような目で陽菜を見つめた。
「あのとき、僕すごいなって思ったんだ。あのお姉さん、人間だよね?」
「う、うん」
「人間と魔族があんなに楽しそうに一緒に笑ってるの、僕、初めて見たから」
どこか羨望を孕んだ少年の声が、冷たい路地裏に静かに響く。
「だから……邪魔したくなかったんだ。僕が助けを求めて、お姉さんが魔族だって街の人たちにバレたら、あの人間のお姉さんとの居場所がなくなっちゃうでしょ?」
息が止まった。
少年の言っている意味を理解した瞬間、陽菜の視界がぐらりと揺れた。
(この子は……私のために、あんな目に……?)
自分がただ怯えて見捨てただけだと思っていた。
しかし、目の前の少年は違ったのだ。彼はあの日、大衆の暴力と悪意に晒されながらも、名も知らぬ魔族の女が手に入れた「人とのささやかな幸せ」を守るために、口をつぐんで耐えてくれていたのだ。
何か言わなければと思うのに、言葉が続かない。
その間にも、アルトはよろよろと一人で立ち上がると、表通りに向かって歩き始めた。
「ね、ねえっ! これから、どうするの」
何とか振り絞った声は、自分でも恥ずかしくなるくらい上擦っていた。
アルトはこちらを振り返ると、困ったような笑みを浮かべた。
言うべきかどうか悩んでいるのかもしれない。
「お姉さん、もしかしてさっき僕が殴られてたの見てた?」
「うん……」
「そっか。じゃあ分かるでしょ。僕、これからまた行かなくちゃ」
どこか諦めたような、自虐するような乾いた声だった。
少年と始めて会った晩の出来事、先程の男の物言い、『頼んでいた品』。
十中八九、彼のやろうとしていることは犯罪だろう。
その様子に、陽菜の胸がギュッと締め付けられるように痛む。
気付けば、一歩少年に向かって足を踏み出していた。
「私も、手伝う」
「……それは、同情? この前の償い? それとも同じ魔族だから? どちらにしても、お姉さんが来るようなところじゃないよ、ここは。余計なことしないで」
「だからって……だからって、放っておけないよ! 今は怪我で済んでるけど、こんなことしてたら……いつか死んじゃうよ」
自分でもなんでこんなことを言っているのか分からない。
アルトの言うように、同情や同族としての意識があるのかもしれない。
でも、きっとこれは、もっと自分勝手な理由だ。
半魔と呼ばれた少年。そして魔王の身でありながら、人間の意識を宿した陽菜。
生きるために罪を犯すしかないほどの過酷な環境にありながら、それでも少年の瞳は何かを求めるように前を向いている。
一番大切な人の差し伸べた手を振り払ってここまで逃げてきた陽菜には、アルトの胸の内が理解できなかった。
だからこそ、この少年のことをもっと知りたいと思った。
陽菜は迷う気持ちを振り払うように、アルトの瞳を真っ直ぐと見つめる。
やがて、少年はふう、と息を吐いた。
「……勝手にすれば。どうなっても知らないから」
陽菜がその言葉に頷くと、少年は再び歩き始めた。
これから先にあるのは、決して明るいだけの道ではない。
互いの抱える罪悪感と諦念が、見えない鎖のように足首に絡みついている。
それでも、暗く冷たい路地裏に取り残されていた二つの背中は、導き合うように、冬の淡い陽光が差す表通りへと進んでいった。




