第9話 ① (陽菜視点)
莉子たちがミーシャと出会い、喫茶リリーを発つ数日前——。
港町セルリアから北上した先にある名も無き宿場町。
未だ雪の残る町並みは、昼間だというのに人気はほとんどなく、吹き抜ける冷たい風が色褪せた店の看板を揺らす音だけが虚しく響いていた。
あの夜、喫茶リリーから、莉子の元から逃げ出し、歩き続けた先に辿り着いたこの街で、陽菜は予想すらしなかった再会を果たす。
しかし、それは決して彼女にとって好ましいものではなかった。
(どうして、こんな所に——)
浄夜祭——人魔の争いで命を散らした兵たちへ贈る鎮魂の祭事で出会った、半魔の少年。
怒号。振り下ろされる暴力。悲鳴。その姿を見た瞬間、陽菜の網膜に、広場での惨劇がフラッシュバックした。
あれは莉子と露店を巡っていた最中のこと。
偶然出会ったその少年は店先からパンを盗んだために捕まり、衆目の中で人外であることが露見した。恐怖に支配された人間たちは寄って集って少年を取り囲み、ただひたすらにその小さな身体を蹂躙した。
それなのに陽菜は、莉子との生活を失う恐怖から、その姿を遠巻きに見つめることしか出来なかったのだ。
陽菜は小さく頭を振り、過去の幻影を振り払う。
少年は生きている。あんな目に遭いながらも、細い胸を上下させ、確かにこの冷たい空気を吸って生き延びている。
よく見れば身につけた衣服は浄夜祭の夜よりもさらに薄汚れていた。
満足な食事をとっていないことがひと目で分かるほどに痩せ細った頬。
野良犬のように周囲を警戒する尖った瞳は、しかし絶望に濁りきっているわけではなく、何かを必死に探すように、爛々と不思議な光を帯びている。
思えば、あの出会いこそが莉子との決定的な亀裂を生んだ、そもそもの始まりだった。
目の前で苦しむ者を助けなければという正義で動いた莉子と、今ある平穏を守りたいと動かなかった陽菜。
あのとき、莉子と一緒に少年を救っていれば、今でも彼女の側にいられたのだろうか。
脳裏に浮かんだその甘い思考に、陽菜は自嘲した。
そんなはずはない。
結局、魔族という本性を抱えている以上、遅かれ早かれこの力が彼女を傷つけるのだ。
神官クラウスとの戦いでそのことは良く分かったじゃないか。
人間にも魔族にもなれない半端者。
クラウスによって捺された烙印が、今も陽菜の胸中に重くのしかかっている。
視線の先に映る少年を見ていると、自分の犯した罪の輪郭が、あの日よりもずっと生々しく浮き彫りになるようだった。
(逃げなきゃ)
ここにはいられない。関わってはいけない。
自分のような化け物が触れれば、きっとまた誰かを傷つけ、あるいは自分自身が取り返しのつかない傷を負うだけだ。
警鐘がガンガンと頭の中で鳴り響く。踵を返し、今すぐこの宿場町から立ち去るべきだと、理性が叫んでいる。
それなのに——。
凍てついた地面の上に張り付いた陽菜の足は、まるでそこだけ縫い付けられてしまったかのように、微動だにしなかった。
そうしてしばらく見つめていたところで、少年のもとに一人の大人がやってきた。
陽菜の潜んでいた場所は通りを挟んで反対側の離れた位置だったが、人間とは比べ物にならない聴力によって二人の会話が鮮明に聞こえてくる。
「……アルト。頼んでいた品は?」
男の低く平坦な声に、アルトと呼ばれた少年はビクッと肩を震わせた。
「ご、ごめんなさい……お店の人に見つかっちゃって。だから——」
ドッ、と。
アルトの言い訳を最後まで聞くこともなく、男の靴底が容赦なく少年の腹を蹴り上げた。
「——っ!」
声にならない悲鳴。少年は蹴られた衝撃で壁に打ち付けられ、崩れ落ちるように路地の冷たい石畳に這いつくばる。
路地裏に転がっていた空き瓶に身体が当たり、パリィッ、という硝子の砕ける音が鳴った。
「痛ぅっ……!」
苦悶の表情を浮かべる少年を気にかけるどころか、男は声を荒らげることすらしない。
底冷えするような目で、ゴミでも見るかのように少年を見下ろした。
「……私を失望させるなよ。魔族の血が混じった薄気味悪いガキを、わざわざこの街に置いてやっているのは誰だ?」
「ぅ……、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
男はしゃがみ込むと、うずくまるアルトの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「あの女の行き先が、知りたいんだろう?」
「……っ!」
「だったら、犬みたいに地べたを這いずってでも役に立ってみせろ。お前みたいな半端者の出来損ないが生きていくには、それしか道はないんだよ」
弱々しく首肯するアルトを見て、男は表情を消すと、掴んでいた髪を乱暴に手放した。
「次に手ぶらで戻ってきたら、その薄気味悪い目玉を抉って売り飛ばす。……それまではメシ抜きだ」
男の足音が路地裏から遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
後に残されたのは、冷たい石畳の上にうずくまるアルトの微かな呼吸音と、時折漏れる苦痛の呻きだけだった。




